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閑窓随筆 ~『法隆寺燃ゆ』古代史の英雄中臣鎌足には、歴史から消されたお兄さんがいた?

『法隆寺燃ゆ』では、中臣鎌足に異母兄がいたという設定です。

「実際にいたの?」

 と聞かれると、

「いや~、その時代に生まれていないので分かりません」

 としか答えることができません。

 残っているのは当時を記す文献と考古学遺物だけですので。

 考古学遺物では、当時の状況を客観的に、簡潔に知ることしかできません。

 となると、政治や社会の深淵については、文献に頼るしかないのですが、この文献類も必ず真実を語っていると限りません。

 歴史書なんて、結局は為政者が都合のいいように作りなおすことができるのですから。

 これ、最近どこかで聞いたことある話ですよね。

 公的文書を作り替えたって……

 まあ、それはさておき、大化改新の立役者で、藤原家の祖でもある中臣鎌足ですが、『法隆寺燃ゆ』の中でもある程度は説明しましたが、中臣御食子(みけこ)と大伴咋子(くじこ連の娘 —— 智仙娘(ちせんのいらつめ)の長子として生まれた………………と、『多武峯縁起(とうのみねえんぎ)』にあります。

 鎌子の伝記である『藤氏家伝(とうしかでん)』にも長子と書かれているのでは、間違いないのでしょう。

 ただ、『藤氏家伝』は矛盾することも記載されています。

 1行目に、「内太臣(うちつのおおおみ)、諱(いみな)は鎌足(かまたり)、字(あざな)は仲郎(ちゅうろう)、大倭国(やまとのこくの)高市郡(たけちのこおり)の人なり」と。

「仲郎」は、中国の伯仲叔季の順で次男の意味に取ることができます。

 実際、『日本書紀』や『萬葉集』では、「中・仲」は次男を指します(沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉『藤氏家伝 鎌足・貞慧・武智麻呂伝 注釈と研究』吉川弘文館)。

 と言うことは、鎌子は本当は次男だったの?。

 もしかしたら、長男が早逝して、鎌子が自動的に長男になった………………とも考えられます。

 が、あくまで鎌子は御食子と智仙娘の長男で、異母兄の存在も考えられます。

『法隆寺燃ゆ』では、その異母兄に中臣鹽屋枚夫(なかとみのしおやのひらふ)をあてています。

 もちろん『日本書紀』に、中臣鹽屋枚夫の名前はありません。

 彼が、鎌子の異母兄であると言う確証もありません。

 彼の存在が確認できるのは、『上宮聖徳太子傳補闕記(ほけつき)』(平安初期頃作)と『聖徳太子傳暦(でんりゃく)』(延喜10(911)年藤原兼輔撰)だけです。

『上宮聖徳太子傳補闕記』では、上宮王家(山背皇子一族)の襲撃首謀者として、蘇我蝦夷・入鹿・軽皇子・巨勢徳太・大伴長徳とともに、この中臣鹽屋枚夫の名前を挙げています。

 そもそも『日本書紀』には、上宮王家襲撃の首謀者を蘇我入鹿で、その手先となったのが巨勢徳太・土師婆倭連(はじのさばのむらじ)・倭馬飼首(やまとのうまかいのおびと)としています。

 ですが、どうも『上宮聖徳太子傳補闕記』の著者は、この記載に不満があったようです。

 その一文目に「日本書紀暦録。并四天王寺聖徳王傳。具見行事奇異之状。未盡言委曲。憤々不尠」と書き、前述の6名を上宮王家襲撃の容疑者に挙げています。

 巷間では、山背皇子一族滅亡の主犯は蘇我親子だけではく、6人の共犯であるという話が伝わっていたのかもしれません。

 仮にそうどとして、なぜ『日本書紀』が、蘇我氏だけに罪を負わせたのか?

 その答えは簡単です。

 軽皇子は後に天皇に、大伴長徳は右大臣に、中臣鹽屋枚夫の一族は藤原氏になったため歴史から削除されたのです。

 大悪人蘇我氏を成敗し、新政府の礎となった重鎮たちの手が汚れていてはいけなかったのです。

 そのため、上宮王家襲撃の容疑を全て蘇我氏に擦り付けたのでした。

 まさに、死人に口なし!

 となると、上宮王家滅亡に関わった中臣鹽屋枚夫は、中臣氏の中ではどういった位置づけにあったのか?

 氏族の由縁書である『新撰姓氏録』には、中臣鹽屋氏という氏族はありません。

 ただ、鹽屋連は存在します。

 武内宿禰の息子、葛木曾都比古命(かつらきのそつひこのみこと)の後継だと書かれています。

『中臣氏系図』には、中臣氏の祖となった中臣常磐大連が、鹽屋牟漏連(しおやのむろのむらじ)の娘、都夫羅古娘(つぶらこのいらつめ)の子供であると書いてありますので、中臣氏と鹽屋氏が、かなり密接な関係にあったと思われます。

 また、軽皇子の息子である有間皇子(ありまのみこ)の傍に仕える者の中に、鹽屋鯯魚連(しおやのこのしろのむらじ)の名前が見えますので、中臣氏、または軽皇子と何らかの関係があったことは十分に考えられます。

 これはあくまで推測であるが、鎌子は長男と言いながら仲郎の字名を持っています。

 鎌子は、あくまで智仙娘の長男で、中臣御食子にとっては次男ではあったのでしょう。

 そして、御食子の本当の長男は、鹽屋氏の娘が生んだ枚夫ではなかったのか?

 中臣鹽屋枚夫は、上宮王家の襲撃に加担したという、中臣氏 —— ひいては藤原氏にとっては存在してはならない人物です。

 そのため、彼は歴史から抹消され、鎌子が仲郎のまま長男になるという矛盾が生じたのではないでしょうか?

 と、これはあくまで私の考えですが。

 まあ、歴史小説としてドラマティックにするために、このぐらいのフィクションは入れても………………などと思っております。

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