【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その三 おりつの一件始末 6
惣太郎は、井戸の水を汲んで、桶に顔を突っ込み、そのままばしゃばしゃと激しい音を立てた。
すぐさま冷たい風が顔に付着した雫を運び去り、ひんやりとしてきた。
「さむっ」
袂の手拭を取ろうとすると、
「どうぞ」
と、女が別のを手渡してくれた。
「ああ、どうも」
母だと思って受けとり、顔を拭き拭き見ると、清次郎の妻だった。
「これは失礼しました」
「いえいえ」
由利は笑いながら、井戸の水を汲む。
「お手伝いします」
「そんな、いいのですよ」
「いえ、任せてください」
由利が持ってきた桶に水を移しながら、惣太郎は考えた。
はて、確かに自分はまだ嫁もいない、子もいない。勝五郎の言うとおり、がきだ。だが、そういう勝五郎は、子を生めない女の気持ちが分かっているのだろうか。女房が、ぽんぽんぽんぽん子を生むと迷惑そうに言っていたが、まるで卵を産む雌鶏扱いだ。子を生む女の立場になったことがあるのか、そして、子がない女の気持ちが分かるのか。
かくいう自分も、男である。
新兵衛の妻に、女の気持ちを聞いたが、それはあくまで子を生んだ女の意見である。では、子のない女の本当の気持ちはどうなのだろうと思った。
桶を一杯にすると、由利は「ありがとうござました」と、丁寧に頭を下げた。
「いえ、全然。ところで、由利殿、つかぬ事をお聞きしますが……」
「はい、何でございましょう」
こんな質問、子のいない女にしてもいいのか迷ったが、どうしても真実(まこと)の気持ちが訊きたく、思い切って尋ねてみた。
すると由利は、別段困惑することも、嫌がることもなく、答えてくれた。
「そうですね、確かに辛いですね。なんだか、自分が女として駄目だと烙印を押されたようで、心苦しい気持ちになりますね」
「その……、いまも」
由利はにこりと笑った。
「いまは全然。この年になると、諦めておりますから」
「そんなものなのですか」
「何事も、時というものが解決してくれますわ」
「それなら、おりつも、亭主のところに戻したほうがいいのでしょうか」
「惣太郎さまは、いかがお考えですか」
それが迷うところである。
自分の下す決定ひとつで、以後の女の幸せが決まってしまうのである。勝五郎曰く、がきが他人(ひと)さまの人生を決めるのだ。
―― これほど、重荷なことはない。
できれば、そういったことに係わらないでいたいのだ。
「いずれがおりつのためにいいのか、拙者は分かりません。矢張り、寺役人は向いてないのかも……」
「あら、私はそう思いませんよ。惣太郎さまは、寺役人にぴったりだと思いますよ」
由利の意外な言葉に、戸惑ってしまう。
「私は、惣太郎さまのように、女の幸せのために、悩みに悩んでくださるほうが良いと思いますよ。まるで、紐を引き千切るようにして、『はい、離縁だ』とか決められたら、女としてはやり切れませよ。そうやって悩みぬく惣太郎さまは、縁切寺の役人として、適していると思いますよ。私がもし離縁をするようなことになったら、惣太郎さまにお願いしようかしら」
「ま、まさか、そんなことがあるんですか」
由利は、うふふふと笑みを零す。
「もしですよ。いまのところ問題はありませんので、御心配なく」
ほっと安堵した。
兎も角惣太郎は、まずは熟縁からさせるようにという縁切寺役人の規則どおり、嫁ぎ先に戻るように、おりつを説得しろと、勝五郎たちに言い渡した。
勝五郎は面倒臭そうだったが、しぶしぶ了承した。