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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 中編 21

 斑鳩寺の寺司聞師は、文机に頬杖をつき、冬の冷たい風に揺れる柿の枯葉を見るともなしに見ていた。

 昨日の雪がうっすらと枝につもり、時折吹く風に飛んでいく。

 空には、白い雲が浮かび、悠々と流れていく。

 西の端が少し暗い、雨が降るのだろうか、それともまた雪か………………

 先ほどの話である。

 寺主の入師(にゅうし)から呼び出され、

『今度、対馬、壱岐、筑紫に防人を遣わすことになってね、斑鳩寺からも出すようにお達しがあったらしい。寺法頭の下氷君が騒いでおったよ』

『はあ……』

『どうも下氷君は、ああいうことが好きだからね。また家人や奴婢を送り出したら、人手が足りなくなって大変ではないのかね? と問うたんだがね』

 実際、白村江に派遣した時も、働き手が十人も取られて仕事にならないと、家人長や奴婢長、厩長から苦情が出たばかりだ。

 下氷雑物は怖いので、直接文句は言えない。

 で、寺主の補佐である明師(みょうし)を通して苦情があがってくる。

 寺を全般的に統括するのは寺主の役目である。

 が、これはあくまでお飾りみたいなもので、僧侶の管理や法会等の行事に関する運営は寺司である聞師が、寺の財産や家人、奴婢たちの管理、経営は寺法頭の下氷雑物君が運営していた。

 僧は現(うつつ)のことに関与せず、と寺法頭にすべてを任せているのだが、流石に直接上申があっては寺主も関与せずにはいられず、雑物にやんわりと問うたらしい。

『いえ、これはお国を守るためですから、との一転張りでね』

 入師は、ため息を吐いた。

 雑物は中央から派遣されてきた、いわば余所者である。

 そのせいか、斑鳩寺のことよりも、飛鳥の意向に従うことが多い。

 斑鳩寺は官営ではなく、あくまで私営である、仏の道を追求する学問機関である。

 仏教が伝来した天国排開広庭天皇(あめくにおしひらきひろにわのすめらみこと)(欽明(きんめい)天皇)の治世当初は、舶来の珍しい教えと最先端の学問に、半島や大陸と近しい蘇我氏等が、富と権力の象徴として寺を建て、学問所として位置づけた。

 崇仏派である蘇我氏と廃仏派である物部氏の衝突による紆余曲折があったものの、国として仏の教えを認め、官営のみならず、氏族たちも挙って寺を建立したが、僧侶たちの風紀の乱れもあり、また寺自体が要害としての役割を担うことから、何かあった場合、中央への障害となりえるため、朝廷が私営の寺であっても役人を送り込んで管理するという体制をとっていた。

 ゆえに、寺の独立を守りたい寺主側と、役人として寺を治めたい寺法頭側との鬩ぎ合いが生じるわけである。

 入師は、基本俗世のことには関知せずという様子で、物静かに寺法頭の差配に任せているのだが、流石に「お国のため、お国のため」と連呼されると、いささか気分が悪いのである。

『お国のこともよいのだがね、しかし寺のことも少しは考えてもらわないと。ですが、私がこれ以上強く言うと下氷君の身分にも傷がつくしね』

『はあ……』

『ということで、寺司のあなたと寺法頭の下氷君で、そのあたりを上手く話してみてくれませんか?』

 とまあ、結局は仕事を押し付けられたのである。

『はあ……、まあ……、では何とか』

 気のない返事をして立ち去ろうとしたところ、入師から呼び止められた。

『そなたには、何かおありかな?』

『はあ? いえ、別に』

『ふむ……、心、ここにあらず……というような顔つきですが?』

『いえ、別に……』

『これも修行のひとつ、仏の道への一歩ですぞ』

 見透かされたようで、聞師はそそくさと帰ってきた。

 で、先ほどから何気に外を見ているのである。

 下氷君との調整に頭が痛いわけではなく、彼の心を捉えていたのは、「道」であった。

 ―― 道ね……、これも仏の道への一歩ですか……

 弟成は、奴婢には奴婢の道があると言った。

 その姉の雪女も、同じようなことを話していた。

 弟成が百済に出征するとき、入師に言われた。

『迷っているのは、あなたかもしれませんよ』

 加えて、先の言葉である。

『これも修行のひとつ、仏の道への一歩ですぞ』

 聞師は眉を寄せる。

 ―― 迷っている?

 この私が?

 いや、私は迷ってなど………………ないとは言えないのだ。

 木簡を開いても内容が頭に入ってこず、お経を読んでいても心ここにあらずで読み間違えるし………………

 ―― 道に迷ったか?

 聞師は、ほっと大きなため息を吐いた。

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