【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 中編 17
11月5日、有間皇子は、蘇我赤兄の遣わした物部朴井鮪連(もののべのえいのしびのむらじ)によって捕らえられ、9日には紀温湯へと護送された。
有間皇子の尋問は、直接、中大兄が行った。
通常、罪人を大王や大兄の皇族方が詮議することはありえない。
では、なぜ中大兄が直接詮議したのか?
答えは簡単 ―― 彼に疾しいところがあったからだ。
他のものに詮議させえると、自分に不利になると思ったからである。
詮議の場に引き出された有間皇子の目は澄んでいた。
中大兄の目は嫉妬に狂っていた。
「有間、なぜ、謀反など起こそうとしたのか?」
中大兄は、型通りの質問をした。
それに対し有間皇子は、朱に染まりゆく空を見上げながら、こう答えたという。
『天と赤兄が知っています。私には、全く分からないことです』
その答えは、余にも屈折していた。
斉明天皇の治世4(658)年11月11日、有間皇子は、丹比小沢国襲連(たじひのおざわのくにそのむらじ)によって、藤白坂(ふじしろのさか)(和歌山県南海市藤白)で絞刑に処された。
まだ19歳だった。
有間皇子とともに、鹽屋鯯魚と彼の従者、新田部米麻呂が斬首された。
死刑にあたって鯯魚は、『願わくは、右の手をして国の宝器を作らせしめよ』と謎の言葉を残している。
彼は、何が言いたかったのだろうか?
その真意は、いまだ謎のままである。
『日本書紀』には、他の罪人として、守大石を上毛野国(かみつけののくに)(群馬県)へ、坂合部薬を尾張国(おわりのくに)(愛知県)へ流したと記載されている。
だが『新撰姓氏録』によると、守氏は景行天皇の御世に美濃国(みののくに)(岐阜県)を治めた大碓皇子(おおうすのみこ)が先祖で、もともと東国とは繋がりがあった。
また、坂合部氏は火明命(ほのあかりのみこと)を先祖に持ち、この火明命を先祖に持つ氏族の中に尾張氏がいるので、尾張国との関係は深かった。
と言うことは、彼らは流罪になったというより、有間皇子支持派から命が狙われないように逃げた、あるいは逃がされたと言った方がいいかもしれない。
事実、この後、守大石君は百済救援軍の後将軍(しりへのいくさのきみ)として、坂合部薬は壬申の乱時の近江軍の将軍として従軍している。
そして、これにて有間皇子の事件は終結する。
だが、残された者の悲しみは幾ばくのものか?
―― それは、愛するものを失った人にしか分からない………………