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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 前編 11

 蘇我入鹿の屋敷には、旻の講堂に負けないほどの木簡が積まれていた。中には、ここでしか見ることのできない木簡もあった。

 鎌子は、毎日のように入鹿の屋敷に通った。

 彼には、希少な木簡を見せてもらいたい気持ちもあったが、何よりも入鹿といることが楽しかった。

 入鹿は博学だった。

 年齢も鎌子とそれほど変わらないのに、入鹿の頭の中には、鎌子には計り知れない世界が詰まっていた。

 鎌子は、その入鹿の世界を知りたかった。

 入鹿は、決して知識をひけらかしたりはしない。だが、鎌子が問題に突き当たると、それを親身になって考えてくれる。そして、さりげなく導いてくれるのだ。

 鎌子は、最近になってこう思うようになった。

 —— もしかして、夢で手を差し伸べてくれたのは、蘇我殿だったのではないだろうかと………………

 しかし、彼はこうも思っている。

 —— なぜ、蘇我殿は俺とこんなに親しくしてくれるのだろうと………………

「蘇我殿、蘇我殿は如何して、私を屋敷に呼んで下さるのですか?」

 鎌子は、とうとう訊いてしまった。

 飛鳥寺の槻の木の下でのことである。

「迷惑ですか?」

「とんでもない。でも、なぜ私なのか? 講堂には他に優秀な人がいますし……」

「だからです」

 入鹿の顔に笑みが浮かぶ。

「はい?」

「あなたが、ご自分が優秀でないと思っているからです」

「はあ……」

 鎌子は複雑だった。

「他の連中は、自分たちが優秀だと勘違いしています。自分たちは生まれながらにして貴人であり、勉強する必要がないのだと。努力せずとも群臣になれるのだと。でも、あなたは違う。あなたも、私と同様、自分自身の無知をご存知だ。そして、そこから必死に抜け出そうとしている。だから、あなたに声を掛けたのです。」

 鎌子が勉強しているのは単に楽しいからで、特に自分の無知を恥じている訳ではなかったのだが、入鹿が自分をそんな目で見ていてくれたのかと嬉しかった。

「釈迦は、仏として生まれてきたのではありません。悩み抜き、学び続け、そして仏となったのです。我々も同じです。貴人として生まれる人間はいません。勉強し続け、貴人としての知識を付けていくのです。あの講堂で、本当に真面目に勉強している人間が何人いますか。旻法師の講堂に入れば、宮内での地位が上がると、単に考えているだけです。そこに、国を司る者としての責任がありますか?」

 鎌子は、入鹿の話を黙って聞き続けた。

「国を司る者が、勉強も努力もすることなく、群臣の息子だからという理由で重要な地位に付くことがあって良いのでしょうか? そんなことで、民たちは付いてくるでしょうか?」

 入鹿は、目を遠くにやった。

「御覧なさい、あの者たちを」

 鎌子は、入鹿の指し示す方に目をやった。

 そこには、泥だらけになりながら、田の手入れをする人たちの姿があった。

「彼らはあれだけ働いても、今日生活するのがやっとといった状況です。それでも、彼らは不平を言わず、国の言うことを享受しています。対して我々はどうですか? 豪族たちは己の利権を優先し、宮内では権力争いの嵐です。群臣も、誰一人として民の暮らしに見向きもしません。彼らは、民が貧しかろうが如何しようが関心はないのです。彼らが興味あるのは、民が自分たちにきちんと米を納めるかどうかだけなのです。そして、足らなくなれば搾り取ればいいと考えているのですよ」

 そうかも知れないと鎌子は思った。

 確かに、入鹿に言われるまで、民のことなど全く考えもしなかった。

「そんなことが長く続くと思いますか? 必ず、民の怒りは爆発します。そうなれば、この国も隋のように滅び、唐のような新しい国ができるでしょうが、しかし、それは多くの犠牲者を出すことになります。さらに、その機会を狙って西海から攻めてくる国があるかも知れません。それだけは避けなくてはいけない。中臣殿、私は、争いを起こすことなく、この国の仕組みを変えて見せますよ」

「この国の仕組みですか?」

「そうです。これまで、各豪族が支配してきた民や土地を、全て大王の下に集中させるのです。そうすれば、いままでのように、豪族が民や米の徴収を勝手にすることができなくなります。国は計画して収入を得ることができますし、民も計画生産によって余剰を生むことができ、いまよりもっと楽な生活ができるでしょう。また、いまの群臣制度を解体し、官吏制度を取り入れ、私欲に走らない優秀な人材を多く宮内に登用するのです」

「そんなこと、豪族が反対しますよ。逆に、反乱が起きます」

「それも考えてあります。豪族には、いままでどおり自分たちの土地を治めてもらいます。しかし、それはあくまで大王の許可をもらい、大王の代行としての役割です」

「はあ……」

 そんなにうまくいくだろうかと鎌子は思っていた。

 国の根本を変える大事業である。

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