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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 前編 22
白雉5(654)年10月10日、軽大王は臨終の際にあった。
彼の臨終に際し、宝皇女を始めとする親族関係者から大臣を始めとする政府関係者まで、全ての者が難波長柄豊碕宮に集められた。
一堂が会するのは、実に1年振りのことである。
この時改新政府は、軽大王派と中大兄派に分裂していた。
中大兄は、元来飛鳥を基盤に置く皇子であったので、摂津・和泉・河内地方を基盤とする新政府の重鎮たちと馬が合うはずはなく、国内政策から外交面まで悉く対立し、政府内では浮いた存在となっていた。
これに目を付けたのが飛鳥を基盤に置く豪族たちで、その中心的人物であった蘇我氏の生き残り赤兄臣(あかえのおみ)は、中大兄を担ぎ、飛鳥派の人間を連れて大和の地に帰るという離れ業をやってのけたのである。
蘇我赤兄は蘇我倉麻呂の弟で、麻呂とともに蘇我本家を裏切ったのだが、新政府の目的が蘇我家の滅亡にあると分かってからは、「飛鳥に宮を」の旗印のもと、水面下で飛鳥派を上手く取り纏め、反政府運動の機会を狙っていた。
目立った動きもせず、蝦夷や入鹿、麻呂ほどの力もないと考えていた政府は、全く足下を掬われた形になったのだ。
そしていま、赤兄にとっては軽大王の死という絶好の機会が巡ってきた。
軽大王が亡くなれば、次の大王は必然的に中大兄である。
軽大王にも息子の有間皇子(ありまのみこ)がいるが、これはまだ若い。
飛鳥政権の復活は目の前である ―― そして飛鳥政権復活とは、即ち蘇我政権の復活であった。
では、新政府の中で蘇我倉麻呂を除き、唯一中大兄と接点のあった中臣鎌子はこの間に何もしなかったのかと言うと、そう言う訳でもなかった。
彼は彼で、巨勢徳太を代表とする軽大王派から、「内臣殿は、中大兄の監視役ではないのか!」とか、「いますぐ、中大兄を大和から連れ戻せ!」とか責め立てられて、中大兄の改新政府への復帰に東奔西走していたのである。
因みにこの時、大伴長徳は既に故人であった。
しかし、中大兄が鎌子の言うことを聞くはずもなく、「俺は俺のやりたいようにやる。お前の指図は受けない」との一言で、屋敷を追い払われてしまうのであった。
この報告を難波ですれば、重臣たちからやいのやいのと責め立てられる。
彼は難波・飛鳥の板ばさみ状態になり、心身ともに困憊していった。
軽大王派と中大兄派の犠牲者は、鎌子だけではない。
軽大王の大后 ―― 間人皇女もその一人であった。
間人皇女は、田村皇子と宝皇女の長女で、中大兄の妹であり、大海人皇子の姉にあたる。
大化元(645)年7月2日に軽大王の大后として立つが、彼女と軽大王の間には子供は授からなかった。
因みに、軽大王は安倍内麻呂の娘の小足媛(おたらしひめ)と蘇我倉麻呂の娘の乳娘(ちのいらつめ)を妻に持っていたが、彼の子を生んだのは小足媛だけである ―― その子が、後世悲劇の皇子と言われる有間皇子である。
間人大后は、一枚の木簡を握り締めて、傍らで横たわる人の顔をじっと眺めていた。
彼女が軽大王の妻となった時も、随分年寄り臭い人だとは思ったが、いまはさらに老けて見えた。
久しぶりに見た夫の顔に、それ以上の思いは湧いてこなかった。
小足媛や乳媛は泣いているが、彼女には軽大王に対して涙を流すほどの愛情はなかった。
元来、好きで一緒になった相手ではない。
軽大王がどうしてもと言うので、一緒になっただけだ。
彼女は、自分の存在が場違いのように思われてならなかった。
周囲を見回す。
小足媛や乳媛に負けず、誰もが涙を流している。
―― それほど慕われていた人かしら?
間人大后は、一人の少年と目があった ―― 有間皇子である。
彼は泣いてはいなかった。じっと、彼女のことを睨みつけている。
彼女は、その目の鋭さに慌てて顔を伏せた。
手許には、一枚の木簡がある。先ほど有間皇子が、「父が、あなたのことを想って詠んだ歌です」と言って、強引に手渡したものであった。
彼女は、その歌を見た。
金木(かなき)着け 吾が飼ふ駒は 引き出せず
吾が飼ふ駒を 人見つからむ
(金木を付けている私が飼っている馬は、外へ引き出しもしないのに、
私が飼っている馬を、人はどうして見つけたのだろうか)
(『日本書紀』白雉四年条)
それは間人大后が、中大兄とともに飛鳥の地に戻ったことへの恨み言であった。