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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 後編 26

「お目覚めですか? 今日は大変天気が宜しいですわ、ご覧になりますか?」

「そうですね、体を起こしていただけると助かります」

 鏡姫王は、夫が上体を起こすのを手伝った。

 妻の身体から心が落ち着くような気持ちよい匂いが漂い、鼻孔を擽る。

 しばし天寿国に溺れるような感覚に浸る。

 このまま妻を抱きしめ、寝台へと引きずり込みたかった。

「お加減いかがですか?」

 が、客人がいたと気が付き、慌てて身づくろいをした。

「これは額田様、お出でとは存じませんで。失礼いたしました」

「ご無理をなさらないでください、そのままで結構です」

 額田姫王も笑顔を向ける。

 相変わらず美しい姉妹だ。

 年は30を超えているにも関わらず、まだ少女のような若々しさがある。

 そこに年相応の円熟さもまじり、何とも言えぬ妖艶さを醸し出している。

 こんな二人に心配されているのだから、自分はなんと幸せ者なのだと、自然と涙が溢れてしまった。

「如何されました? お加減が悪いのですか?」

「いえいえ、申し訳ありません。やはり年ですかな、最近涙脆くなりまして」

「お年だなんて、まだまだお若いですわ」

「いいぇ、どうも最近、こう胸の辺りが……。夢見も悪いですし」

「夢ですか? どのような?」

 先ほど見た夢を、ほんの戯言のつもりで話したのだが、妻は酷く心配したようだ。

「まあ、そんな夢を? 縁起でもない。巫女(かんなぎ)を呼びましょうか?」

 今にも飛び出さん勢いだったので、慌てて止めた。

「大丈夫、大丈夫ですよ。いえ、よく見る夢です。何せ、こういう立場ですから、色々と恨まれますからね」

「そんな、あなたを恨む人などおりませんわ。これほど公のために尽くされているのですから」

「そうですわ」、鏡姫王の言葉に額田姫王も同意した、「以前の大王様と大海人様の一件も、無事に収められましたし」

「いやいや、あれは自分など、むしろ額田様のお蔭でございますよ。あのとき、とっさの機転で歌を詠っていただいて、場が一気に和みましたので」

「お役に立てて良かったですわ。でも、あのあと、大変でしたでしょう?」

 蒲生野の薬狩りの宴席での葛城大王と大海人皇子の対立は、まさに天下を二分する事態であった。

 その場は、額田姫王の機転で何とか収まったが、そのあと、やはり互い蟠りが残り、朝廷内をまとめるのに苦労した。

 蘇我赤兄とともに奔走し、いまは何とか収まっている。

 だが、また対立する可能性もある。

 次に、大王と大海人皇子が対立したときは、あの程度では済まないかもしれない。

 今度こそは、国を二分するようなことになるかもしれない。

 お二人とも、影響力のある方たちなので、それを頭に入れて行動してもらいたいのだが………………

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