【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 後編 15
昨夜の雨も朝方にはあがり、日差しが差し込んでくると、草木についた雨露がまばゆいばかりに輝きだした。
蒲生野での薬狩りは盛大に行われ、男たちは鹿の角を何本とるかで張り合い、女たちは薬草をとりながら噂話に華を咲かせた。
その夜、淡海を臨む高台に宴席が設けられた。
葛城大王をはじめとする皇族方や、中臣鎌子を筆頭とする氏族、そして百済の旧王族や貴族も招かれ、列席した。
いまは中央政界からは遠ざかっているとはいえ、名門大伴氏も、馬来田・吹負兄弟をはじめ一族あげて出席した。
もちろん、末席ではあったが………………
安麻呂も、一族の中に席を占める。
だが、幾分青ざめた顔をしている。
先ほども、久しぶりに顔を合わせた額田姫王に、
『安麻呂さま、どこかお具合が悪いのですか? お顔の色が優れませんわ?』
と、心配されたほどだ。
『あっ、いや、別に……』
『いえ、こやつ、少し疲れておるのですよ、昼の狩猟で。普段から歌ばかり詠んで、怠けてばかりおりますからな』
と、馬来田が代わりに答えた。
それは、当代きっての名手と歌われる額田姫王に嫌味に聞こえるのでは……と、心配になった。
が、額田姫王は嫌な顔ひとつせず、
『それは大変ですわ。安麻呂様、あまり無理をなさらずに。このご宴席も、途中で抜けて結構ですわよ』
と言ってくれた。
『いえ、とんでもない、大王主催の宴席を途中で抜けるなんて』
『構いませんわよ、どうせ酔うと、誰も何も分からなくなるんですから』
と、彼女は笑いながら自分の席へと向かった。
額田姫王のいう通り、できれば途中で抜け出したい、と思っていた。
だが、兄の御行から、
「お前、抜けるなよ」
と、釘を刺された。
「いいか、今夜はわが大伴氏にって、一族の将来を左右する一大決戦だ。お前にも、やってもらわねばならぬことがあるのだからな。分かっておるな」
「はぁ……」
と、気のない返事をした。
―― 全く、なんでこんなことに………………
将来は、歌詠みになるのが夢である。
もちろん大伴氏の名前もあるので、何かしらの政か軍の役職に就かなければならないだろう。
だが、それはあくまでも肩書だけで、ちょっと仕事をして、あとは一日の大半を歌を詠みながら過ごす………………なんて理想的な将来を考えていた。
自分が実戦に出ようなどと、考えたこともない。
なのに、こんな大切な、それも大それた場に居合わせろとは………………
大それた場 ―― 大友皇子の誅殺、葛城大王の強制退位、そして大海人皇子の即位
安麻呂は、昨夜の打ち合わせを思い出し、身震いした。