【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 中編 1
鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)である。
武甕槌神は、高天原の神々が経津主神(ふつぬしのかみ)とともに葦原中国(あしはらのなかつくに)平定のために地上に使わした神様であり、出雲の国譲りの神話は有名である。
地上に降りた武甕槌神と経津主神は、大己貴神(おおなむじのかみ)から出雲を譲り受けた後、東征して、最終的に行き着いたのが常陸の鹿島の地であり、武甕槌神がその地に鎮座することとなったのが鹿島神宮の由縁である。
因みに、経津主神は、現在の千葉県佐原市に鎮座することとなった。
これが香取神宮である。
両神宮は、どちらも武神を祭祀しているため、国家鎮護の神として、皇室や時の権力者たちからの信奉が篤かった。
『鹿島神宮社例傳記』によると、鹿島神宮の創設は神武(じんむ)天皇即位(紀元前660)年であるらしい。
『常陸国風土記』には、第十代祟神(すいじん)天皇の御世に、大坂山(二上山)に降りて来た神が、「私を祀れば国は思いどおりに平定できる」と神意を示したので、大中臣神聞勝命(おおなかとみのかみききかつのみこと)が、「香島国に鎮座する大御神の神意」と奏上し、天皇が畏れ敬って多くの御幣物を神宮に奉納したという言い伝えがある。
『常陸国風土記』には、天智(てんじ)天皇の御世に、初めて人を遣わして神の宮を造ったとあるので、この頃、当時権力者となった中臣鎌子によって本格的な造営が行われはじめた。
—— 上宮王家が滅びた。
鎌子がその知らせを聞いたのは、鹿島の社で初めての新年行事を向かえるために、慌しく準備をしていた12月も押し迫った頃のことであった。
その知らせは、次の大王が宝大后に決定し、山背大兄とその一族は蘇我入鹿に滅ぼされたという、鎌子にとってはなんとも衝撃的な内容だった。
蘇我殿が上宮王家を滅ぼした。
それは事実だろうか?
蘇我殿が、同じ蘇我一族の山背様を殺すだろうか?
しかも、一族全員を………………
しかし、蘇我本家は後継者争いの度に同族を滅ぼして大きくなった家だ。
もしかしたら、今回もこれと同じか?
いや、待てよ。
蘇我殿が、自己の繁栄のために一族を殺すような人であろうか?
これには何か深い理由があるに違いない。
鎌子は、知らせを受けた日から、新年行事の準備もそっちのけで考えていた。
もしかしたら、蘇我殿はいよいよ国政の改革に乗り出されたのかもしれない。
山背大兄が、改革に反対したかどうかしたのだろう?
そのため、蘇我殿は最終手段に打って出たのだ。
なるほど、蘇我殿の意志は固いようだな。
鎌子は、いますぐにでも飛鳥に帰りたかった。
飛鳥に戻って、上宮王家の滅亡の真実を知りたかったし、何より、入鹿とともに改革の舵を取りたかった。
いよいよ新しい時代が来るのだ。
ああ、早く飛鳥に戻りたい。
—— 飛鳥に!
しかし、希望も虚しく、彼は新年を鹿島で向かえるのであった。