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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 中編 13
10月15日、宝大王は紀温湯に行幸した。
これは、蝦夷征伐がある程度区切りがついたので、それに対する群臣たちへの慰労と、宮内に不幸が続いたので、その禊も兼ねていた。
蝦夷征伐は『日本書紀』によると、景行(けいこう)天皇の時代から始まる ―― いわゆる日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国遠征である。
これ以降、4・5世紀に渡り蝦夷の朝貢や平定の記事が続く。
ただ、大和王朝が計画的に蝦夷征伐を進めるようになったのは、中央集権体制が整ってきた6世紀中期以降で、祟峻(すしゅん)天皇の治世2(589)年の近江満臣(おうみのみつのおみ)を東海道に遣わして蝦夷の国境を見させたのが始まりであるようだ。
7世紀以降の蝦夷関連の記事は、殆どが、皇極・斉明天皇の時代 ―― すなわち宝大王の時代に集中する。
『日本書紀』は、編纂時に都合が良いように差し替えが行われているので、宝大王だけが蝦夷征伐を推進していたとは考えられないが、彼女の時代に蝦夷を大和朝廷下に置こうとしたのは確かだろう。
さて、斉明天皇の治世4(658)年4月、安倍臣は舟180艘を率いて、齶田(あぎた)(秋田の一部)・渟代(ぬしろ)郡(秋田県能代)の蝦夷を征伐する。
その3ヵ月後の7月4日に、蝦夷200人余が朝貢をしている。
この時の将軍 ―― 安倍臣の名は伝わっていないが、安倍氏は、安倍比羅夫臣(あべのひらふのおみ)を始めとして、北伐の将軍を多く出す氏族であった。
もちろん、大化改新の立役者たる安倍内麻呂もこの一族であるし、有間皇子も安倍氏の血を引いていた。
そしてこの安倍氏が、有間皇子事件を引き起こす大きな要因ともなるのである。
宝大王の紀温湯の行幸には、前述した目的の他に、彼女自身の重要な目的があった。
それは、蘇我の怨念を払うこと………………
彼女は、未だに蘇我の怨念に憑りつかれていた。
そして、建皇子の死がそれを決定付けてしまう。
この時、彼女に救いの手を差し伸べたのが有間皇子であった。
彼は、牟婁の湯には邪気を払う効能があると言い、宝大王にしきりに温湯行きを勧めた。
彼女も、建皇子の件があったので弱気になったのか、有間皇子の言葉を信じ、紀温湯行幸を行った。
だが、これは有間皇子の罠であった。
彼の狙いは、空になった後飛鳥岡本宮を急襲し、併せて軍船で淡路国(あわじのくに)と牟婁津(和歌山県田辺市周辺の港)を封鎖して、宝大王たちを紀温湯に閉じ込め、宝大王に退位を促す、または新政権を樹立することにあった。
彼は大王になるために、間人皇女と一緒になるために、反乱という最短距離を取ったのである。
宝大王の紀温湯行幸が舟であったかどうかは記載されていないが、陸上行程よりも舟の移動の方が迅速であるので、彼女たちの移動も舟であったであろう。
すると、有間皇子の牟婁津封鎖は功を奏する。
また淡路国の封鎖も、万が一、紀伊を逃れ、淡路島に逃げられた場合のことを考えてであろう。
これだけの行動を可能にしたのは、有間皇子一人の力ではない。
これこそ、有間皇子を支える安倍氏の力があった。
北伐将軍を多く輩出する安倍氏の主力は水軍である。
有間皇子の計画が、軍船を基本にして考えられたことからもそれが分かる。
この有間皇子事件には、明らかに安倍氏の力も働いていた。