【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第一章「純愛の村」 28
「美濃の城が落ちたようで」、権太やおえいの心情をよそに、十兵衛は白湯を啜りながら山崎家で聞いてきたことを話した、「それで、そこにいた足軽連中がここまで逃げてきているようなのですよ」
つい先日、美濃の城が落ちたと、一乗谷に知らせがあったらしい。
落ちた城は、稲葉山城らしい。
稲葉山城は、美濃国井之口にある山城で、建仁元(1201)年に二階堂行政(にかいどう・ゆきまさ)が砦を築いたのがはじまりとされる。
十五世紀ごろに廃城になっていたのを、当時美濃の守護代であった斎藤利永(さいとう・としなが)が修復し、以後斎藤氏の居城となるが、長井長弘(ながい・ながひろ)・松波庄五郎(まつなみ・しょうごろう)の謀反で長井氏のものとなり、庄五郎の子であった新九郎が城主となり、山城を築いた。
松波新九郎、または長井新九郎こと、斎藤道三(さいとう・どうさん)である。
その後は、道三の息子、義龍(よしたつ)、孫の竜興(たつおき)が治めたが………………
「尾張の織田氏に攻め落とされたそうです」
斎藤氏に雇われていた足軽連中が主を失い、ここまで逃げてきているそうだ。
方々の村からも知らせが入り、一乗谷では警戒するようにお達しが出ているとのこと。
十兵衛は、もともと各地を転々とした身から、美濃の斎藤氏のことや尾張の織田氏のこと、そのほか諸々、山崎吉延から聞かれたらしい。
で、鉄砲を借りに行くついでに、それを朝倉義景にも話してくれと、一乗谷まで一緒に行っていたらしい。
「まあ、拙者などが話すまでもなく、朝倉様も織田や斎藤のことはよくご存知でしたが」
一乗谷に赴くと、義景だけでなく、一族、家臣団も集まっていたらしい。
そこで、美濃の現状や織田家の状況、今後の情勢について評定されていた。
十兵衛は、それを山崎吉延の後ろで黙って聞いていたらしい。
越前朝倉氏は、斯波(しば)氏に仕えた朝倉広景(あさくら・ひろかげ)にはじまる。
二代目の高景(たかかげ)が越前宇坂荘などの地頭を命じられたことから、越前に根を下ろし、勢力を拡大していくことになる。
やがて七代目孝景(たかがけ)によって越前を平定、守護代に命ぜられるまでになった。
もともと越前は、朝倉氏の主家であった斯波氏が守護を務めていたが、それを乗っ取る形になったのだから、朝倉氏こそ、戦国時代の習わしである下剋上を体現した一族であった。
ちなみに七代目孝景は、公家や寺社の所領を良く押さえたことから、彼らから、「天下一の極悪人」とか、「天下悪事始業の張本人」とまで言われたらしい。
応仁の乱を生きぬいた孝景からすれば、権威など糞の役にも立たん、ただ座っているだけで飯が食える世の中だと思うなよ、越前を平定したのは我の実力じゃと、鼻にもかけなかったことであろう。
このあと、朝倉家は越前を良く治め、繁栄していく。
それには、七代目孝景の八男であった教景(のりかげ) ―― 朝倉宋滴(そうてき)の存在が大きい。
朝倉八代目は孝景の嫡男氏景(うじかげ)であったが、宋滴はこれを良く補佐し、氏景亡き後、九代目貞景(さだかげ)、十代目孝景(たかかげ)、そして現当主義景に仕えた。
実際は、宋滴が朝倉家の当主といっても過言ではなかった。
内政、外交、戦においても随一であり、他の一門衆や家臣団も優秀ではあったが、宋滴は頭ひとつ、いや、二つ、三つ抜きんでていた。
そのためか、彼が亡くなってから朝倉を取り纏める者がなく、一族・家臣も浮き足立っている。
「それぞれの器量は高いとは思います。が、それを上手く纏める者がいないのが、いまの朝倉家の残念なところです」
十兵衛は、出された椀を口に運びながら言った。
源太郎は、十兵衛の次の言葉を待っている。
庄屋とともに村を守らなければならない。
戦になれば、村から兵役や荷方を出さなければならないだろう。
朝倉家の存亡が、村の行く末を決める。
現当主や一族、家臣らの力量を気にするのも頷ける。
権太も、十兵衛の話を真剣に聞いている。
彼にはまだ政は分からない。
ただ、十兵衛が帰ってきたことが嬉しくて、傍に居たくて、真剣に話を聞いているふりをしているだけだ。
姉は、十兵衛の傍で、ときより意味深な視線を向けながら世話をしている。