【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その三 おりつの一件始末 3
そのあと、父に郷役までの使いを頼まれ、外に出た。
強い北風が吹いていた。
落ち葉がかさかさと乾いた音を立てながら、地面を転がっていく。
母から姿勢が悪いと怒られそうだが、惣太郎は首を窄め、背中を丸めながら郷役場に向かった。
つい数ヶ月前まで仕事をしていた場所である。机を並べた仲間たちの顔を見ると、急に懐かしくなり、変わりはないか、少し痩せたか、寺役はどうだなど、他愛無い話で盛り上がった。
おはまのことも話題にのぼった。いったい、あの女はどうしているやら、無事なのか、それとも殺されたのか、と話しているうちに、どうしても現場を訪れたいという思いが募り、役場をあとにした惣太郎は、その足で彼(あ)の女の着物が見つかった川へと向かった。
川は、相も変わらず流れている。
おはまは、どんな気持ちでこの川を渡ったのでろうか。生きているのだろうか。それとも、もう……。
こうして前の女の一件を、いまだ心に留める自分は、寺役など務まらないのではないか。
そういう思いが渦巻いて、心が酷く沈んできたので、ああ、いやいや、気が滅入ってくる、新兵衛殿の言うとおりだ、すっぱりと忘れようと、土手にあがろうとしたところ、ふと顔をあげると、その新兵衛殿!
丸裸になった桜の木の根元にいる。
声をかけようかと思ったら、誰かと話し込んでいるようだ。
彼には珍しく真剣な眼差しで、身振り手振りを交えて、熱心に話している。
相手は誰であろうか。
よくよく見ると、女である ―― やえ殿か。
いや、全く知らぬ女である。遠くて顔までは見えないが、泣いているようだ。先程から袂を顔に押し当てている。
なんというか、これは………………ともかく惣太郎は、新兵衛に見つからぬよう、そっと土手をあがり、その場をあとにした。
あれは、いったい何であったのであろうか。
新兵衛殿の知り合いか。それにしては、女が泣いていたが、もしや、新兵衛殿の………………いや、それはあるまい。子をふたりまでなした親だ。それに、やえ殿のことも大切にしている。その新兵衛殿が………………だが、人は見かけによらぬというし。
兎も角、このことは見なかったにしよう。奥さんのやえ殿には絶対に内緒だと心に誓いながら戸口を潜ると、その女とばったり出くわした。
「あら、惣太郎さま、ちょうど良かった。お芋を焼いたところだったんですよ。どうですか」
と、笑顔を見せた。
お月様のようなまん丸な顔である。笑うと、両頬にぽっくりと笑窪ができて、一見苦労しらずのお姫様のようだ。この人が、子をふたり生んだというのだから、女は分からないものである。
「あっ、いや、あの……」
新兵衛のことがあったので、遠慮願いたいと思った。
だが、やえは是非にと勧めてくる。
「寒かったでしょう。ほら、火に当たってくださいよ。お芋も、ちょうど良い具合に焼けていますよ」
井戸の傍に落ち葉を集めて、火を起こしている。
母や清次郎の妻由利もいる。嘉平は、火加減を見ている。その傍で、新兵衛の長女たえと次女のさえが芋の焼けるのをじっと見ている。
「惣太郎、遠慮しないで当たりなさい」
「さあ、どうぞ、惣太郎さま」
と、母も由利も勧めるので、断り辛くなってしまった。
しかも、さえがちょこちょことやってきて、袖を引っ張る。
仕方なく火に当たり、芋を頂戴することにした。
女子どもと焚き火に当たるなんて、がきの頃以来だ。
母と由利は、すっかり寂しくなった花畑を眺めながら、今度は何を植えましょうかと語らい、たえは母から、「熱いわよ」と言いながら、千切った芋を食べさせてもらっている。
もうひとりの娘さえは、なぜか惣太郎にべったりだ。ずっと袴を握って放さない。
「まあまあ、惣太郎さまは、よっぽどおさえに気に入られましたね」、母のやえは、からからと笑う、「綾取りを解いてもらったのが、よっぽど嬉しかったんですよ」
「いや、あれは……」
母を見ると、知らぬと目を逸らしている。
「はあ、いえ、まあ……」
「これはこれは、将来が楽しみですな」
と、嘉平はにやにやと笑う。何を考えているのやら。
「将来って……」、ああ、そいうことか、惣太郎は慌てて否定する、「いやいや、何を言うんだ、嘉平」
「いえ、惣太郎坊ちゃまとおさえ坊なら、お似合いだと思いますよ」
「馬鹿を申すな、だいたい磯野さまややえ殿が許してはくれまい」
「あら、あたしは結構ですよ」、やえは躊躇なく言う、「むしろ、こちらからお願いしたいほどです。うちのも、惣太郎さんなら喜びますよ。あとは、立木さまや波江さまのお許しがいただければ……」
「私は大丈夫ですよ」、母は夕飯を決めるよりも、あっさりと言う。
「ちょっ、ちょっと母上」
「あなたも、もういい年なのだから、早く身を固めなさい」と、母の顔は幾分真面目だ。
「まあ、良かった」、やえは手を叩いて喜ぶ、「それでは、許婚として……」
すると、長女のたえが、
「あたしも、惣太郎さまのお嫁さんになる」
と、言い出して、一同どっと笑った。
ひとり惣太郎だけが、冷や汗を掻いた。