【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 後編 2
女も、まるで刃物のように鋭い三日月を眺めていた。
八重子………………八重女である。
彼女は縁側に座り、池のほうから吹き寄せてくる冷たい風を浴びながら、月を見上げていた。
「珍しいね、八重子がひとりで夕涼みなんて」
声をかけたのは、大伴安麻呂である。
「安麻呂兄さま、いらっしゃいませ」
八重女は、突然の来訪に驚きながらも、彼を招き入れた。
侍女の酒を受けながら、安麻呂は聞いた。
「最近、体調も良いようだな。侍女たちから聞いたぞ、よく外に出るようになったとか。少し血色もよくなったんじゃないのかい?」
「そうでしょうか?」
八重女は、頬に手を添える。
「ええ、八重子さま、随分お顔色も良くなられて、以前よりもお綺麗になられましたわ。もしかして、良い人でもと私たちも噂していたんですよ」
と、侍女は嬉しそうに言う。
余計なことを……と、八重女は思った。
「なんだ、そうなのか?」
「ええ、以前は夜になると私たちをみんな下がらせて、おひとりでいらっしゃいましたから。きっと、いい人が通ってるんだと思ってましたわ」
「おいおい、初耳だな。それならそうと言ってくれよ」
「いえ、そんな……」
八重女は、侍女に黙っているようにと目配せしたが、彼女は全然分かってないようだ。
むしろ嬉しそうに安麻呂と話している。
「私も、はやく八重子さまに良い人ができることを願っておりますわ」
「全くだ」
これ以上変な詮索をされたくなかったので、話を変えた。
「ところで、安麻呂兄さまは、今夜は何用で? まさか歌をとお誘いですか?」
「ん? いや、まあ、良い月なので、まあ、それもあるのだが……」と、杯を置き、「実は大王の命で、蒲生野で薬狩りをするらしい。どうも大規模な薬狩りで、各氏族は必ず参加するようにとのことなのだが……」
大伴氏にも通達がきて、それならばと一族あげて参加することになったらしい。
「いまから大広間にご歴々が集まって、どうするこうすると話し合いだよ」
安麻呂も参加するらしいが、どうやら気が乗らないらしい。
「当然、私は狩りよりも歌を詠っているほうが断然良いからね」
「安麻呂兄さまらしいです」
二人はけらけらと笑った。
大伴家のなかで、これほど心を許して笑いあえるのは安麻呂だけである。
他の連中は、もと婢である八重女をお客さま扱い……といえば聞こえはいいが、厄介者扱いである。
―― 自分たちの都合で買ったくせに………………
と思うのだが。