で、「世間」の中でこの話を「みんな」に聞いてもらうには、誰がどうすればいい?
これまでで、今のコミュニケーションの分断の原因は、「世間」のルールによる自然現象である「自己責任論」だ、という「世界観」を提起した。そして、その大本は「はずされる」恐怖が高まっていること、それによる相互不信と考えた。
一応自分の「政策」として「世間」から「自己責任」ではずされてしまうことの恐怖を、様々な形の強力な福祉で解消すべきだと提言した。様々な理由で人ははずされてしまうが、そのうち、広く「客観的」に、はずしてよいとされている理由を潰す必要がある。具体的には、無職だとか、犯罪者だとか、精神障害者とか、からだが、もっと抽象的に、ひろい意味で「悪」「弱者」「愚か」などなどのレッテルを、人々から剥がす統一システムを作ることが、必要だと私は思う。
この最初の対象群を誰がどうやって決め、どこまで拡大するかも、難しい問題だ。具体的にどういう福祉行政で「ゆるす」かも当然難しい。
ただ、その前に一番難しいのは、上記の「世界観」「政策」をなんとか「みんな」に聞いてもらい、考えてもらうことだ。
何度も言うように我々は、誰かが悪人だとか、大衆の頭が悪いから、という理由で分断されているわけではない。コミュニケーションが成立する条件がないから、分断されている。ただそれだけの自然現象だ。この分断に、「世間」的なコミュニケーションだけでアプローチする必要がある。理屈を説くだけでは誰も聞いてくれない。
今、たとえば、だれか私ではなく、天才的学者が上記を私とは独立に、もっと厳密に、正しく理解し、しかも解決する素晴らしい政策を思いついたとしよう。それをどうやってみんなに聞いてもらう?素晴らしさを皆に納得してもらえる?
最初の問題は「世界観」「政策」の詳しい内容そのものではない。我々の目の前にあるのはバラバラの「世間」の島々だけだ。この人々の少なくとも半分に、「コミュ力」でもなんでも使ってなんとなく「聞いて」「考えて」もらわなければならない。これが相当厳しい。
今なにかの政策は、内容ではなく第一に誰が言ったか、どの島の住民が言ったかで読まれてしまう。
勿論、当たり前といえば当たり前だ。私と学者が並んでいたら学者の話を聞くべきだろう。だがそんなレベルでは終わらない。たとえば野党支持者が言ったら、与党支持者は無条件で反発するだろう。これもまあ仕方ない。
だが現実はもっと酷い。「野党支持者」っぽい人が言ったら、与党支持者はそれだけで反発するか、聞かない。自分の嫌いな人が言ったら、徹底反論で叩き潰すことを前提に聞くかもしれない。自分の嫌いな人の仲間っぽい人でも同じだ。
事実上、誰かの嫌いなやつらを利するかもしれない言動をしている、時点でもう駄目だ。まともに聞いて、考えてもらえない。
この基準で、多くの人に疑念を持たれた時点で詰み、という状況。それは「世間」における振るまい、信用だけで判定される。地雷原だらけである。
それでいて基本的には、なるべく強力なアナウンスで多くの人に語りかけ、魅力を感じてもらわなければならない。だが、その過程で、頭が悪いとか、詐欺師だとか、敵のプロパガンダだ、個人の金儲けだ、冷血漢の理屈だ、特定の誰かのためにやっている、脳みそお花畑、などというレッテルは当然貼られる。しかもすべての陣営の人達から。それに「言葉」でなく、「態度」で応答できるか?どう応答すべきか?
ここまで書いてみると、すでに私、ヒラヤマタカシでは批判をかわすのは無理だ。
匿名の素人だと、まずアナウンスのための「肩書」が圧倒的不足だ。話を聞いてすらもらえない。これはどうしようもない。だが、私は「肩書」のない人に語らせたいのだ。だから私は匿名の素人のまま、なるべく大声で騒ぐしか無い。
次に実際の能力、つまり知的能力、学識などの不足を問われても、それもどうしようもない。不足しているからだ。能力はあります、証明してみせましょうなどといっても、ボロが出て終わりだろう。今から勉強します、なども焼け石に水だ。勿論これからも勉強していくが、十分な勉強量などだれが決められるだろう。私は勉強していない人の話も聞きたい。できれば勉強もしてほしいが、それを話を聞く条件にしてはダメだと言いたい。
人柄の誠実さといった文脈でも、もう十分疑わしい。すでに炎上ネタを自分のnoteのアナウンスために使ってしまっている。それを読んだ一部の方は、良心が欠如しているのでは、と思ったことだろう。それはある意味まったく真実である。ゆえに、私は誠実だ、などと言い訳しても厳しい。これを述べるのが、私に可能な最大の誠実さだ。無論、演技力を発揮することはできるが、私は演技にも自信がない。仮に私が演劇関係者で、よほど自信があったとしても、やめたほうが良いだろう。演劇者が得意なのは舞台の上の演技であって、「世間」の上の演技ではない。横からみれば見抜かれる。「世間」の上の演技を全ての人に向けてできる人間は、天才的な大衆扇動者だろう。私はそうではないし、今のところこれに該当する人は日本にはいなそうだ。それは決して悪いことではない。というか大衆扇動で大衆扇動を不可能にする、など自己矛盾も良いところである。本当にそんなことができる人間がいたら歴史に残る真の天才だが。そして何より、一見誠実に見えない人でも、それはその人のせいではないというのが私の主張なのだ。
偏りも、事実だ。実際私は「中立派」的立場に偏っている。中立派は真なる中立ではない。短期的には、多数派を事実上免責しながら、少数派により多くの倫理規範を課してしまう。この危険は過去のnoteを読んでいただいた方には分かってもらえるだろう。全ての人間への批判は、強い人よりも弱い人、不真面目な人より真面目な人、冷酷な人より優しい人に強く刺さる。ゆえに平等などではない。これを認めるのが、私のできる最大限の「中立さ」である。そしてなにより、偏っている人たちにも、同じ問題を考え、語ってほしい。
無責任な理想主義者、あるいは理想主義者のフリをした詐欺師という批判も、回避不能である。本当の民主主義はもっと良いものだとか、「相互理解」は可能だ、とか言ってるのは根拠なしである。私自身、本当に可能なのか?実は不可能なのでは?もっと酷いことになるのでは?と疑っているのだから。冷笑主義者が悪いとは決して言いたくない。私もある意味では冷笑主義者だ。私が口先だけのエセ理想主義者というのは正しいかもしれない。そのうえでやっていく、というのが理想に対する私の態度だ。
個人の金銭的利益のためというのも事実である。一連のnoteで合計1万円ほど投げ銭を頂いている。有料noteの宣伝やら、書籍化などはする気はないが、「する気はない」などと宣言したところで、いつそういった動きに走るかなど分かったものではない。有名になった途端気が変わるかもよ、などと言われても反論は不可能だ。なにより、お金は誰でもほしいのも事実だ。それは決して悪いことではない。書籍を書いてお金を貰う人、有料コミュニティを運営する人を「悪い」とは絶対に言いたくない。だから投げ銭はいただく。
他にもいくらでも批判できる。そしてその批判はつねに何らかの意味で正当であるが、私がやりたいのは直接の反論ではなく、「正当性」自体への反論だ。
しかしこれ、よく考えると私だけの問題ではない。そもそも個人では不可能なほど厳しい。私ではなく、もっと素晴らしい人を持ってきても容易ではない。ファンは増えるかもしれない。ファンは書籍を書い、拍手喝采してくれるかもしれない。「相互理解」オンラインサロンだかを作って、勉強会を開催できるかもしれない。それは決して第一歩としては悪くない。でもそれだけだ。
ファンが聞いてくれるだけでは何の意味もない。日本人の半分をファンにできる人がやってくれれば一応解決…なのだが、何度も言うように、そういう危険かつ無理そうなことはやめにしよう。
私に思いつく解答は一つである。なるべく私ではなく、これを読んでくれた個人が、全く独立に、この問題を考え、解答を模索し、それをどこかで発表してくれること。それがだんだん広がること。これしか無いのではないか。
私のnoteや主張が広がっても真の意味では無駄だ。それでいて、とりあえずこの構造に警告を発するにはなるべく大声で騒ぎ続けるしか無い。だからそれを拡散してもらえれば嬉しい。だがその過程で誰かが嫌な思いをしても、それは私の責任だ。
それがこのnoteだ。
無論、何かを書くことは時間がかかり、面倒だ。発表にはリスクもある。あなたの生活、安らぎ、幸福のほうがはるかに大事だ。だからそれをつねに優先して考えて頂きたい。
ただ、その上で、何か「世間」がおかしい、理不尽だ、と思ったならどうするか。どんな生き方があるか。
一つは、「正しさ」をあきらめて、今の「世間」の構造の中であなたの生活、安らぎ、幸福を第一にして、生きていくことだ。個人レベルのトラブルは、現在の法にしたがって粛々と解決すればよい。これは決して悪いことではない。むしろ素晴らしいことである。世間皆があなたのようなら、問題は解決で、世界は平和だ。
それが嫌だ、「世間」を「正しく」変えたい、と思ったなら。断言しよう、そのための唯一の方法は、まず最初に、この分断をみんなで解決する、それしか無い。それ以外の方法は、絶対に不可能である。諦めよう。目の前の「正しさ」に飛びつくのではなく、最初の「正しさ」のために、自分だけの力で、声を上げて頂きたい。本当は、今声の小さい人ほど、それをやる意味がある。
私がやっていた手法、私に課した「規範」を守る必要はまったくない。全く自由に、考え、行動して頂きたい。
無責任なことを言っているのは分かっている。だがそれは私にはどうしようもない。
このnoteは以上のことを、手を変え品を変え言い続けていく。とりあえずここで行き止まりだ。ここまで読んでくださった方は、もう私のnoteを読む必要はないだろう。
他の誰かがもっといいアイディアを思いつく可能性は残っている。これ以降のnoteでは、「分断」にアプローチする、他の人々の書籍や思考を紹介していくことも増えるだろう。だが、それを私は常に批判する。そうして残ったものだけが真に可能だと思っているからだ。
ただ、言い訳になるが、ツイッターのリプ応酬などで直接の批判を重ねるのは、どうも良くないかもしれないと思い始めている。「不和」のコンテクストが重なりすぎるので。これからは何かを「批判」するときはnote中心になるだろう。note内の直リプは攻撃的になりすぎないようもっと気をつける所存である。これに関しては改めるので、できていなければ適宜叩いて頂きたい。
では。
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