あんたはあんた自身の強さに気付いてよ沙代|『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』
※ネタバレあり
※性暴力の描写があります。フラッシュバックにご注意ください。
『ゲ謎』をやっと見に行った。
あらすじ↓
太平洋戦争の傷跡を抱えた人々を描く「反戦映画」として重要なメッセージをもった作品で、そのことについては色んな人が書いてくれている。
ただ、その問題もさりながら、私が観ながら思っていたのは沙代についてだった。
沙代は龍賀一族の死んだ当主・時貞の孫でありながら、時貞の子孫を増やすために産まれた存在である。つまり実の祖父の性的道具とされていた。しかし時貞の子を妊娠することはなく、時貞の“お気に入り”として彼の相手をする以外には価値のない存在とされてしまった。生きる意味も失ってしまっている彼女にとって唯一の希望は、「ここ」(龍賀家に身を捧げ子を産むことこそ女の仕事のすべてだという因習にまみれたこの村)から抜け出すこと。だから全く知らぬ東京からやって来た水木に「ここ」から助け出してくれと期待を託すのである。
しかし、水木に託したって仕方がない。水木にしても戦後の日本を生き延びるのに必死で、 彼女に近づいたのは龍賀一族に入り込むためだ。沙代に同情こそするが、「愛せよ助けよ」と言われたって無理なものは無理なのだ。
だから私は観ながら「そんな男になにかを託すのはやめて私と一緒に行こう沙代」と声を出したかった。一緒に抜け出そう、もしくは一緒にすべてを破壊しよう沙代。
というかつまり、こんな話にこそシスターフッドが必要だったんじゃないか、と思いながら観ていた。
そもそも日本で語り継がれるような妖怪や幽霊などの怪談は、ミソジニーと切り離せない。
家父長制社会は、女性を長らく虐げ、酷い扱いをしてきた。そんな女性たちから「恨まれているのではないか」「いつか報復があるのではないか」という男たちの潜在的な不安や恐怖から、多くの妖怪が生まれている。たとえば「お菊」や「お岩さん」などが代表的。日本の妖怪に女性が多いのは、そのように女性たちが社会的に虐げられてきた歴史に理由があるのではと言われている。
そして『ゲ謎』でもやはり、幼い頃から酷い虐待を受けていた沙代こそが、強い怨念により妖怪になり、次々に親族を殺していた犯人であった。この作品は、そういった女性妖怪のステレオタイプから抜け出せていないのではないか。
妖怪になり家父長制社会をくつがえしてしまえるほど強力な力を持っているはずの沙代が、それでも、たまたま外から来た男(水木)に頼らなければいけない、と思い込んでしまっているのが悲しかった。あんたはすべてを破壊できる力を持っているのに。
中盤までは、「もしかしたら沙代は水木を利用するだけ利用するつもりなのかも」「東京に着いたら水木に朗らかにサヨナラして1人で逞しく生きていくのかも」と思っていた、というか願っていた。がやはりそんなこともなく。結局沙代は、水木は本当は自分を愛していないこと、そしてどこに行っても搾取からは逃れられないことに絶望して、霊力を暴走させてしまう。
そりゃそうだよ水木は別に沙代を愛してるから行動してるわけじゃなくて「可哀想だから助けてあげなきゃ」という“大人の男の責任感”とやらで同情しているに過ぎないんだから。そんな男になにかを託すな沙代。私が行けばあんた自身にあんたの強さを気付かせてあげられるのに。
しかも沙代はあんなに強い、というか否応なしに強くさせられてしまったのにも関わらず、それでもラスボスにさえしてもらえないんだ。ほんとにやるせない。
とはいえ、そもそもこの作品自体が水木とゲゲ郎の2人を主人公として進んでいくので、沙代のような存在が主体性を持って動く姿を描くのは難しそうだな、とも思う。
それと、沙代に限らず、女性キャラクター達が皆「役割」でしかないような印象があった。
ドロドロの後継争いを演じる三姉妹も、「女の敵はやっぱり女」的なヴィランキャラクターという以上の深みはないように感じた。ゲゲ郎の妻も、「連れ去られ囚われている、慈愛に溢れた妻」というだけでなく、妊娠した「母」という役割まで負わされている。
どの女性たちも、生きているという感じがあまりしなかったような。
強い反戦のメッセージを持ち、現代の重要な作品として多くの人に観られて支持されている映画だからこそ、そのような古い女性表象さえも解き放ってほしかった……と思ってしまいました。
小さい頃兄から観せられてトラウマになったせいで今でも私のなかのゲゲゲの鬼太郎のイメージは『墓場鬼太郎』です。おしまい
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