ひとりごと⑧~「フレネミー」の支配から離れることができた
さんざんな目に遭った中でも
「結果的にはこれで良かった」
と思わされたことはいくつかある。
第一には何よりも
Aという人物から離れることが出来たことだ。
縁を切ることを決めた時、精神はボロボロだったが同時に物凄くホッッッとした。
もっと早く友人関係を切るべきだったと思っている。
何故それ(縁を切る)を今までしなかったかというと、
まず同じ組織の仲間という連帯意識があったため。
一つの目標に向けて「みんなで」取り組んでいる時は、個人の性格など大した問題ではない。
Aから小さな嫌がらせをされてもバタバタしている現場では流すしかない。それどころじゃないからだ。
そしてAの
常軌を逸した異常な言動
と
友好的な友人としての言動
は、絶妙なバランスで成り立っていた。
どれだけ自分勝手でやりたい放題で人を傷つけても
「ああ見えて根は良い人だから」
で済まされてしまう何かがあった。
ある意味天賦の才能だと思う。
「ああ見えて根は良い人」は全く良い人ではないのだが。
私は仕事を続けるつもりでいたし、多少腹の立つことがあっても「縁を切る」なんて頭の片隅にも無かった。
この私の考えは甘かったが、間違いだったとも思えない。
今回のAの攻撃性と想定外の言動が、さすがにちょっと常人の想像を越えすぎていた。
巷でよく「毒親」という言葉を聞く。
毒親にも様々なタイプがいるが、
我が子に対し異常な干渉をし、支配をし、行動を管理し、価値観を押し付けようとする「支配型」も多いらしい。
Aが私にしてきた数々の行為はまさに「支配型の毒親」に近いものだった。
毒親の友人バージョンは「毒友」とでも呼べばいいのだろうか。
しばらく後になって、心理学に関する文献で
「フレネミー」
という言葉を知った。
フレンド+エネミーをかけた造語だそうだ。
友達のふりをした敵。
私はさんざんAを"親しい友人のつもりだった"などと書いてきた。
しかしAにとって私は友人でもなんでもなかった。
たまたま近くにいた『攻撃するのにちょうどいい奴』
だったのだろう。
しかし社内の人間全員にとってAの存在が「フレネミー」だとは思わない。
現に仲良しの先輩であるDさんやEさんに対しては、私に対するような態度は絶対取らないはずだ。
また歳があまりにかけ離れた人や男性はAにとって「別の個体」なので、
境界線を踏み荒らしてまで自分と同じ行動をしろなどと強要はしないだろう。
私は同い年で同期で同性で、ボーっとして争いを好まないタイプで、全てが好都合だったのだと思う。
フレネミーの対処法は
・なるべく距離を取ること
・プライベートな話をしないこと
・どれだけしつこく詮索されても言いたくないことは言わないこと
だそうだ。
もう遅いけど。
そういう人間は決してわかりやすい"悪人"ではない。
四六時中意地悪なことを考えているわけでもない。
時には良いところをちらつかせ友好的に振る舞いながら、いつのまにか支配しようとする。
それを計算して行う者もいるだろう。
Aのように短絡的な思いつきで行動した結果が「フレネミー」だった、という者もいる。
とにかくそういう人間が世の中に存在することが分かった。
そんな教訓を得るにしては私の被験期間は長すぎたのだが。
BとCに対する感情はAに対するのとは全く別のものだ。
軽率な問題さえ起こさなければ、今も良き後輩で良き仲間だっただろう。
「こんなことになって残念だったな」という情がまだある。
しかしそんな過去を仮定しても仕方ない。
人の仕事を潰してヘラヘラしていたのはまぎれも無い事実なので。
社長に対しては、
「何故そこまでして何もしない道を選んだのか」
という疑問しかない。
会社として少しでも介入してくれたらあっさり済んだ話で、何も難しいことではなかったのに。
Bが生成AIで済ませようとしたのは、会社的に鳴り物入りの、みんなにとって大切な企画だった。
大きな企画をポシャらせてまで、社長が守りたかったものは何だろう。
今となってはもう何もかも遅い。
全て手遅れだが、永久に疑問だ。
私には法的措置を取る選択肢もあるだろう。
酷い罵詈雑言を受け、体調を崩し、明確にシカトまでされているのだから。
しかし法に訴えて僅かなリターンを得たとして、私の気が済むとは思えない。
何より「あの会社に関連するもの全てに二度と関わりたくない」という気持ちが大きい。
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