ベネデッタ
これは思春期の映画である。
現在、劇場公開中のポール・バーホーベン監督作
『ベネデッタ』は、17世紀のペストが流行るイタリアを舞台にキリストから愛された少女ベネデッタの伝記に基づいた物語である。
ベネデッタは幼少期から聖母マリアの奇跡を受け、修道院に入った後にキリストと対話し、その身体に聖痕を授かる。
彼女はやがて聖女として崇められていく。
と、少し宗教っぽいイメージであらすじを書いてみたが、正直、私に宗教の知識はない。
私は幼稚園がカトリック系だったため、ミサやお祈りはしたことがある。だが恥ずかしい話、意味も分からず形だけのお祈りをしていたような人間である。
修道女を主人公にした映画だと、ジャック・リベット監督の『修道女』(1966年)やパヴェウ・パヴリコフスキ監督の『イーダ』(2013年)などいくつか観てきたが、どれもキリスト教に詳しくないので理解して観れたとは言えない。
なので、今回の『ベネデッタ』は宗教的な視点から離れて1人の少女が大人になるまでの成長譚として解釈して鑑賞した。
では、ポール・バーホーベン監督が如何にして彼女の成長を描いたのか。
その方法の一つに小道具の使い方である。
画面に出てくる小道具でベネデッタの変化を描いている。
血の付いた割れたコップの破片。
このワンカットが疑いのショットになり、彼女が本当に聖女であるか曖昧にする。
幼少期、彼女は聖母マリアを信じその奇跡を受けていた。それはイマジナリーフレンドのマリアだったのではないか。
次第に成長してキリストと対話し聖痕を授かり花嫁に選ばれた。
火刑前に聖痕が再び現れ、民衆を扇動し、火刑から逃れたベネデッタ。恋人のバルトロメアは彼女を助ける時にその破片を見つけてしまう。
この破片と傷は“嘘”と“権力”のイメージ。
彼女は偶像を利用がすることで、自分を有利な立場にした。彼女は修道院の生活の中で、傷の信仰を享受する幼い民衆の存在から、言葉や動きを巧みに使い、民衆が信じる傷の信仰を利用する大人側へ思考を成長させた。
物語の最後、ベネデッタが裸から服を着て、街に帰る動きも彼女が大人になったことを意味している。
ベネデッタの恋人である少女バルトロメア。
この作品ではベネデッタを文明人、また大人として、バルトロメア野生人、また子供として描いているように思える。
バルトロメアに野生的に触れられ見られることで、ベネデッタの中にセックスが目覚め、お互い求め合い快感に目覚める。
つまり、思春期に入ったのだ。
そして、ベネデッタは聖母マリアの木像を使ってバルトロメアの前で自慰行為を行う。
このシーンが前述した信仰を利用する側になったことを示すシーンとなっているように思える。
信仰と妄想の対象だったマリア像を自らの快感のために道具として利用し快感を得る。
マリア像のイメージが子供から大人に変わった瞬間である。
そして街外れの洞窟ような場所で火刑から逃れた2人は裸で過ごすが、ベネデッタは再び服着て街へ帰る。
この服を着る、街へ帰るという文明的な行為をするベネデッタと、裸のままでその場から離れないバルトロメアとの対比が、ベネデッタが思春期を越え大人になったことを意味するのだ。
このようにこの映画は、純粋に思春期を迎えそれを超えて大人になるまでの成長を描いた物語であるのだ。
評価: ☆☆☆
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