あゝひめゆりの塔
兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
夢は今めぐりて 忘れがたき故郷
音楽室で憔悴した少女が奏でる「ふるさと」。
美しい田園風景を感じさせた郷愁の歌は、
母の死を突きつける哀しみの旋律へ、
そして愛国心を焚きつける戦争讃歌の戦慄へと
変貌していく。
美しかった故郷とその血塗られた歴史。
彼女たちの魂が帰る場所はいま何処なのか。
我々が忘れかけている記憶を、映画という記憶装置を通して我々に彼女たちを語り続ける。
1968年公開の舛田利雄監督作『あゝひめゆりの塔』。太平洋戦争末期、沖縄師範学校の生徒たちが体験した戦争の現実を、彼女らの視点で描く。美しい女学生の歌声が次第に悲痛な叫びに変わり、美しい日本が地獄へと変貌していく様を克明に描いている。
太平洋戦争末期、米軍に徐々に追い込まれていく日本の姿を舛田監督の演出と撮影の横山実は、まずは構図から描いていった。
同級生に囲まれ、揶揄われる吉永小百合。
画面に写るのは、1人と大勢という人物配置。
袋の鼠。囲まれて逃げ場のない恐怖を、彼らは
構図で序盤から暗示的に表現している。
また、枠の考え方も優れている。
全校集会で高らかに愛国心を叫ぶ教師と整列した生徒たち。カメラは生徒たちの間をゆっくりと前進し教師に寄っていく。
フレームから除外されていく生徒たちの背中は、
これから彼らを襲いくる死を表現しているように思える。
この映画の優れた点は、映像以上にキャスティングにあると私は考える。
カメラと吉永小百合。
この映画のファーストシーンは、ディスコで踊り狂う60年台の若者を描く。「20歳」「18歳」の男女は空虚な気持ちを音楽と踊りにぶつけている。
そんな戦後生まれの子供たちを写したあと、
時代は遡り、戦時中の沖縄へと変わる。
主演の吉永小百合は撮影当時、23歳。終戦年の生まれだ。当時、彼女はディスコで踊っていた若者と同じ年代を生きている。
吉永小百合の存在は、冒頭の男女と沖縄の女学生の両面の性質を持っているのだ。
吉永小百合は伊豆大島のロケで過酷な戦争をカメラの前で擬似的に体験する。
劇場の観客は椅子に座り、彼女の姿をカメラの目を通して体験することで戦争の記憶を想像するのだ。
この冒頭のシーンと、23歳の吉永小百合の組み合わせが、この映画を饒舌にする。
現在、再び戦争が起こった。我々の日常にも静かにその影が迫ってはないだろうか。
我々は美しい故郷が再び戦地になる可能性を考えなくてはならない。
評価: ☆☆☆☆
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?