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わたしという線香花火

僕らが思ってる以上に人生は短いので、つまんないことに気を取られていないで毎日喜怒哀楽を感じ続けたほうがいいよなあ、と思った。どうせ消えちゃうんだから楽しんだもの勝ちだ。

人間の意識なんて本当に曖昧なもので、わずか数分前の自分すら、もう自分であるという感覚がない。

ならば、私の存在とはなんなのだろうか。

今、この瞬間から数十秒しか、わたしがわたしであるという確信はなく、クリアにわたしだと思えるのはイマココの一瞬の火花でしかない。

まるで線香花火のようにパチパチと光っては消えていく存在、それが意識なのかもしれない。全体としてはずっと光っているようにみえるが、それぞれは小さな小さな閃光(スパーク)の連続。

その瞬間以外は「まあまあ覚えている」というぼんやりとした記憶でしなく、その手応えも果たしてどれほどの解像度なのか、よく考えたことすらない。

強いて言えば、その時の感情の固まり。匂いのようなもので、喜怒哀楽やその時の風景、言葉、何もかもを揮発性の何かに変えて、脳みその中の無数の泡のようなものに閉じ込めている。

何かのきっかけでその泡が弾けると、心の中にほんの一瞬だけその香りが広がる。それが懐かしさや嬉しさや悔しさや恨みや勇気や絶望や可笑しさや安らぎを、時に淡く、時に濃く匂わせる。

そんな曖昧な僕らという揮発性な存在なのにも関わらず、なぜか僕らはある人には友情を感じ、言葉で酌み交わす以上のものを感じる。あるいは何かに抗うその人なりの戦いに、あるときは嫌悪し、ある時は大好きだと思う。もしくは相手に自分の存在が分からなくてもいいから、その人がただこの世界のどこかに存在してくれていることだけで愛おしく思うときもある。

このような人との関わりを香りに例えるならば、無臭の中に生きるよりは、他者を感じる香りがふわふわと漂っていて、しょっちゅうプチプチと弾けるなかを生きていきたい。

感じることが生きることで、実は人は喜怒哀楽どの感情でも構わない。でなければ、なぜわざわざ悲しい小説や、怒りと興奮の映画を観て、底知れぬ闇から生まれた言葉の中にその身を投げるのか。

それらの言葉や匂いを感じなくなった時、人は死を迎える。それは肉体的な死でなくても、精神的な死として、わりと多くの人にしかも何回か訪れることもある。それは肉体的な死が一瞬であることと比べたら、長い時間の精神的な死する状態が続くことは、つらくてたまらないだろう。

だから僕は、現代社会という名の息苦しい透明なドームから、一人でも多くの人が飛び出せることを心から強く願う。そのために僕は再びソフトウェアをつくり、メディアをつくり、劇団を旗揚げしようとしている。そのことを通じて、僕はこのドームから外へ出ようとしている。

疑心暗鬼で、人との繋がりよりも組織の繋がりが優先され、力を持つものが平気でハラスメントをし、尊敬されるはずの人が虐げられ、小さくやれることをやってる人の声がかき消されて同調に心が殺される孤独なこの社会だと、できる限り鈍感でなければやってられない。敏感だと戦わなくてよい何かと戦わねばならなくなる。そんなことはもう嫌なのだ。

一方で、何かを感じ続けていさえすれば、それは目一杯豊かに生きているということであるはずだ。意識が途切れるその直前まで、人は感じ続けられる。それらを感じるためには、他者の存在しかない。それは思い出であったり、そばにいる物理的な存在や、心に残る言葉や、顔や風景や、音やぬくもりであったりする。

わたしとあなたが全く別々の魂であるにも関わらず、そしてこの意識が生まれてから今までこの魂はずっと体内にあって孤独であるにも関わらず、言葉を使い、語感を使い、喜怒哀楽なんらかの感情を得たことをお互いに覚えていることによって、私たちは繋がっている。

そういう繋がりを、お互いにもっともっと増やしていきたい。

旅芸人一座は、そういう繋がりの発生装置でありたい。

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