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スイスで介護ヘルパー!その21「山姥(やまんば)に見えたケラーさん・第一話」#入居者さんの思い出


日本人の私には…


 ケラーさんのことを書くには、慎重に言葉を選ぶ必要がある。その容姿を描写するのは、かなり難しい。

 お背は小さい。お顔にはおシワが多く刻まれている。入れ歯をしておらず、口元はしぼんでいる。化粧っけはなし。おヒゲはかなり目立っている。
 そして、真っ白い頭髪にいたっては伸び放題、まったく何の手入れもされていない。一見、お金がなくて美容院に行けず、やむを得ず放置している人のように見える。

 が、こんな介護サービス付き高齢者向けホームに入居しているのだから、お金がないはずがない。ご家族が費用をおさめて、入居させたのだ。

 ケラーさんは要するに、体を洗うとか髪をとかす等といった、日常の衛生観念をすっかり失くしてしまわれた方なのだった。

 日本には、山姥(やまんば)という妖怪がいる。白髪がボサボサに生えていて、歯が欠けていて、古臭い着物をだらしなくまとったイメージ。大変申し訳ないが、スイス人のケラーさんが私には山姥に見えた。痩せた上にさらに体が縮んだのだろう、身に着ける服はどれもブカブカだったので、着物こそ着ていなかったものの、まさにだらりとした山姥のイメージだった。
 もちろん、同僚にはそこまで詳しく言わなかったけれど。

 ケラーさんが住んでいた高齢者アパート

 ところで、私が働いているのは介護サービス付き高齢者向けホームだが、それはこの高齢者施設の中の「介護部門」と呼ばれる。お部屋は全部で28室。よりによって建物の4階にある(スイスで4は不吉な数字ではない)。

 そして3階までと5階から上は、高齢者のためのアパートが100室以上ある。そこでは、短時間の訪問介護を必要なだけ利用することができる。お薬を渡す、包帯を変える、ベッドから起き上がるのを手伝う、シャワーの介助など(もちろん、それらのサービスなしに生活できる人も)。
 
 部屋では自炊もできるし、別料金でルームサービスや食堂も利用できる。体操教室やコンサートも随時開催されている。緊急の場合は、夜中でも駆けつけてくれる。

 高齢者アパートの住民が、けがや病気などで一時的に介護が必要なときは我が介護部門に滞在するが、回復すれば戻る。
 そして完全に要介護となると、4階の空いているお部屋に引っ越してくるというシステムだ(自宅から入居してくる人もいるが)。

 おかげで我が施設は、コロナ禍のときも経営悪化を避けることができた。空室が出ても一時的で、やがては全室すべてが埋まる仕組みになっているのである。
 
 以前のケラーさんは、この高齢者アパートに住んでいた。だから私たちにも、すでに顔なじみだったのである。背筋をぴんと伸ばした、ショートカットのさっぱりした女性。私は言葉を交わしたことはなかったが、一見しておしゃべり好きな、快活そうな雰囲気だった。

 が、入居してきたときは、すでに髪の毛が相当伸びていた。認知症が重症化しており、アパートから介護部門への引っ越しを説得するのに、かなりの時間を要したのである。
 

言葉を失ったケラーさん

 朝。お部屋に行き、目覚めていることを確認する。昨夜の遅番は、ケラーさんを着替えさせることに成功したようだ。ネグリジェを着ている。
 そして、声をかける。「ケラーさん、おはようございます。ご機嫌いかがですか。よく眠れましたか」。

 しかし、ケラーさんは答えない。
 
 ケラーさんは、言葉を使わなかった。基本的に何も話さない。何も言わない。イエスとノー、つまり首を縦や横に振ったりすることさえ、ほとんどなかった。
 機嫌が良いときは、唇の端をほんの少し上げて、かすかな笑顔を作る。それを認めると、ホッとした。
 
 通常、足や腰が痛い人の場合はベッドの上半身部分を高くしたり手を添えたりして、体を起こすのを手伝ってあげる。
 ケラーさんの機嫌が悪いとき、おそらくよく眠れなかったときや体のどこかが痛いときなど、どう扱ったらいいかわからない。両足を持ってベッドの下へと誘導してあげると、ケラーさんはうめき声をあげ、いきなりげんこつを作ってぶんぶんふり回していたりする。痛いとかやめてとか言う前に、まず手が動いていた。寝ている状態で手をあげたところで、こちらには届かないので被害はないのだが。(第二話へ続く)

【読者のみなさまへ】
 今回の、このケラーさんのお話は、表現的に問題か所が多くあると思います。中には、内部事情暴露のような内容になっているところもあるかもしれませんが、どうかご理解くださり、最後までお読みくだされば幸いです。
 また、「この表現に直した方が良い」などのご指摘は大変ありがたく存じます。よろしくお願い申し上げます。
 

おことわり。本文に出てくる人物名は架空のものです。プライバシー保護のため、内容も部分的にフィクションを加えてあります。

神奈川県→イタリア→英国スコットランド→スイス。引っ越し回数30回以上、転職も30回以上(バイトを含む)。イタリア語を学んだ後、日本語教師、ライター、介護ヘルパー。趣味は読むこと書くこと、ウォーキング、ヨガ、旅行、折り紙、ピッコロ。現在スイスのバーゼル近郊に長女と2人暮らし。