平川いく世
過去にお世話させていただいた入居者さんの中から、特に忘れられない方々のストーリーをつづっています。介護の専門用語は出てきません(もしくは文中で説明します)。どうぞお気軽に、スイスの介護の世界をちらっと覗きに来てくださいね!
(第四話からの続き) エミリアが見せてくれたこと そんな、ある日の午後。エミリアという子が、シュヌッパー(トライアル制度。フーバーさんの章を参照)にやって来た。 エミリアは退屈しているケラーさんを呼ぶと、リクレーションの棚から直径20センチほどのボールを持ってきて、ケラーさんとキャッチボールを始めたのだ。ゆっくり、慎重に相手に向かって投げ、受け取ってはまた投げ返す。ただそれだけだが、驚いたことにケラーさんは、それを上手にやっていた。時々ボールを受け取りそこねて落と
(第三話からの続き) 歩行器から車椅子へ 入居当初、ケラーさんは歩行器を押しながらひとりで歩けた。ゆっくりながらも、活動的に歩きまわっていたのだ。 ところがある日、廊下を歩いていたところ、急にドアが開き、ケラーさんは倒された。ドアから出てきた看護士のモニカは、その時、待たされるのが大嫌いなミューラーさんを待たせている最中。倉庫へオムツを取りに行って、急いで戻ってくるところだったのだ。それで、ドアの向こうに人がいないか確認するのを忘れ、ドアを勢いよく開けてしまった。
(第二話からの続き) ケラーさんにシャワーができました!? そんなわけで、ケラーさんに対して通常のお世話が実行できた場合は、ほとんど称賛の対象となった。 昼食が済み、遅番が出勤してくると、朝のお世話で気づいたことや大事な項目を早番から遅番へ引き継ぐためのミーティングが行われる。早番は、朝にお世話した際の簡単な報告をするのだが、いつもと同じなら特に言う必要はない。 けれどケラーさんの場合は、違っていた。担当者が何かできたとき、それは例外というものだから、いちいち報
(第一話からの続き) ケラーさんの意思表示 つい先日まで高齢者アパートにいて、何でも一人でしていたはずのケラーさんは、しかし、実際は「何もしていない」のだった。 朝のルーティーン、例えば洗顔や歯みがき、シャワーはおろか、清拭(ぬれたタオルで体を拭くこと)もしない。放っておけば、着換えもしない。 トイレには一人で行っていたが、失禁も時々あった。リハパン(パンツタイプのおむつ)は汚れても換えないし、陰部を拭くこともない。肌は尿にずっと触れたまま、パンツの中でむれて
日本人の私には… ケラーさんのことを書くには、慎重に言葉を選ぶ必要がある。その容姿を描写するのは、かなり難しい。 お背は小さい。お顔にはおシワが多く刻まれている。入れ歯をしておらず、口元はしぼんでいる。化粧っけはなし。おヒゲはかなり目立っている。 そして、真っ白い頭髪にいたっては伸び放題、まったく何の手入れもされていない。一見、お金がなくて美容院に行けず、やむを得ず放置している人のように見える。 が、こんな介護サービス付き高齢者向けホームに入居しているのだから
みなさま、お元気ですか? いつも「入居者さんの思い出」をお読みいただき、誠にありがとうございます! 私はふだん、介護ヘルパーとして働き、休日にはこの noteなど好きなことを書き、ときどき日本語教師もしています。 この度、久々に旅行記事を書きました! Travel.jpさんには長いことお世話になっているのですが、今回は実に4年ぶりの執筆、掲載となります。 ここ数年は、いろいろなことがあり、なかなか旅行に行こうという気になれませんでした。 が、ここに来て精
(第四話からの続き) お部屋に入ることを禁じられて フーバーさんは、やがて終末期に入った。まったく立ち上がれなくなり、食べ物を受け付けなくなり、さらに骨が目立つようになってしまった。 寝たきりになると、新米の私には担当が回ってこなくなり、部屋への立ち入りも禁じられた。 けれど、どうしてもフーバーさんに会いたい。会話はできないだろうけど、一方的でもいいから話しかけたい。ある時、誰もいないのを見計らって、私はこっそり部屋へ入った。 フーバーさんは、静かに縮こまって
(第三話からの続き) やがて悲しきダンスパーティー フーバーさんは若い頃、ダンスがお好きだったそうだ。あるとき、施設内でダンスパーティがあり、私はフーバーさんを車椅子に乗せてお連れした。 かかっている音楽に合わせ、ただ思い思いに踊るというイベントで、外部の高齢者も参加できた。実は私は、踊ることが好き。バレエを習っていたし、盆踊りも率先して踊るタイプ。なので同伴者に立候補したのである。 ところが恥ずかしいのか、みなさんそんなに活発には踊っていない。ホールの真ん中に出
(第二話からの続き) 地球の引力にまかせた歩き方 昼食が終わると、順にお部屋へとお連れする。お昼寝をする人が多いからだが、午後のお茶の時間まではお部屋でゆっくりするという人もいて、フーバーさんもそうだった。 最後には車椅子になったけれど、初めてお会いした頃はまだ歩行器を押して歩いていた。フーバーさんの歩行器をお席のそばまで持ってきて、椅子の向きを変えてポジションを整え、両手はハンドルを握ってもらってから起立となる。その際にズボンの後ろを持ったり片腕を組んだりして
(第一話からの続き) 経験のない私がしたこと 介護ヘルパーの資格を取ったばかりで職場経験がなかった私は、シュヌッパーとはいえほとんど見学しているだけだった。向こうもそれを心得ていて、私にやらせるというよりは、まるでもう採用が決まったかのように、いろいろ説明してくださる。 それで、私がその日実際にやったのは、ゴミを捨てに行く等といった雑用、そして食事介助だった。 シュミットさんの記事(その5を参照)にも書いたが、食堂から少し奥まったところにもうひとつテーブルがあっ
とにかく細くてか弱いおばあちゃん その日、私はシュヌッパー(トライアル勤務)に来ていた。そこでフーバーさんと出会ったので、本当にこの仕事を始めた頃の話だ。私の思い出の入居者さん第一号は、実際のところ、このフーバーさんなのである。 ほかの誰よりも背が低くて、痩せていて、華奢だったフーバーさん。グレイの髪は、ストレートのおかっぱ。そして目が、欧米人にしてはかなり細いのである。お肌も乾燥してシワシワだったから、さらにか弱く見えた……。 犬がくんくん匂いをかぐような
(第五話からの続き) ご自分でも気づいていらっしゃる? ミューラーさんは、私たちの動向を細かく知りたがった。今日は誰が何時に来る、勤務は何時まで、ほかに誰がいる、夜勤は誰が来る等々。 そしてお世話中に、私たちがやむを得ない理由で部屋を離れたりすることをひどく嫌がった。ほかの同僚を手伝う、電話が入るなど、お世話の途中だが一瞬いなくなることは残念ながらあることで、ほかの入居者さんは理解を示してくださる。 が、ミューラーさんは戻ってくるといつもご機嫌を損ねているのだ(あ
(第四話からの続き) スイスドイツ語圏の一匹ラテン狼 ミューラーさんはやはりラテン系であり、ほかの入居者さんとは雰囲気が異なっていた。例えば、基本的によくしゃべる。食事が大事で、メニューを慎重に選ぶ。身なりに相当気を遣う、などなど。 そして、仲の良い入居者仲間は一人もいなかった。常にお部屋で孤食していて、食堂で食べたことはただの一度もない。 入居者さんができるだけ他者と触れ合い、部屋の外の空気を吸い、できるだけ歩いて、メリハリのある生活できるよう、私たちは食堂へ
(第三話からの続き) 不可解に映るジャパニーズスマイル 私は日本人なので、何か間違いを指摘されると、つい「あ、間違えちゃった」と笑ってしまう。これは日本人特有なのだろう。深刻な場面や重大なミスならともかく、ミューラーさんに指摘された場合はとにかく悔しいから、意地でも反省顔をしたくない。笑ってごまかすつもりはないが、「まったくドジだなあ、私」ぐらいの感覚で笑う。そしてまた気持ちも新たに頑張ろうと思う。 ところが、そのジャパニーズスマイルがミューラーさんの気に食わ
(第二話からの続き) 介護とプライド ミューラーさんの登場以来、私はこの仕事とプライドについてよくよく考えるようになった。 介護職はサービス業であり、接客の部分が圧倒的に大きい。排泄物や吐瀉物の処理も含めると、ある意味、究極の「奉仕」である。入居者さんのお世話をする際、時には自分のプライドを捨てないと務まらないことがある。ミューラーさんは特に、注文が多く要求も高かったので、それにはいはいと最後まで従っていられる人は限られていた。 中にはうまく笑顔で切り抜けるス
【読者のみなさまへ】この第二話は、ミューラーさんのお世話がどれだけ面倒かを延々とつづったものです。介護に興味のない方には退屈かもしれませんので、ここは飛ばして第三話をお読みください。 (第一話からの続き) 朝のお世話(ミューラーさんの場合) 入居者さんの多くがバスルームに服をかけておくのに、ミューラーさんは部屋の椅子の上に(Tシャツは背もたれへ、ズボンはひじ掛けへ)かけておくと決まっていた。朝はトイレに座らせたら、すぐに服を取りに行く。ほかの入居者さんはトイレに座っ