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スイスで介護ヘルパー!その27「グラーフさんの夜の講義・第二話」#入居者さんの思い出

 (第一話からの続き)


得た知識を披露する場 


「一日中新聞を読んでるから、目が疲れるのよ~」と言っていたグラーフさん。眼鏡をとっかえひっかえ、時には目薬を差しつつ、毎日精読にいそしんでいた。そうやって得た知識や情報で、グラーフさんの頭はぱんぱんに詰まっていた。
 
 夜の9時ごろ。夜のお世話を一通り終え、グラーフさんも布団に入る。通常なら、そこで「おやすみなさい」となり、よく眠れますようにと挨拶して、電気を消し、お部屋を後にする。

 しかしグラーフさんは、違っていた。なぜか床につくと、待ち構えていたかのように講義が始まるのだ。それにしてもねえ、中国は何考えてるかわからないわねえ。世界中でああして、こうして…(中略)。それからねえ、トランプがあんなこと言ってるけどねえ、…(中略)。そういえば、日本はどうなんでしょう、…(中略)。昔はフィンランドもね、そうだったのよ…(後略)。

 政治、経済、文化、歴史、芸術、イベント……と話題は多岐に渡った。グラーフさんのドイツ語はなめらかではないが、新聞を読み込んでいるため、語彙は豊富である。それに対し、私のドイツ語レベルは中級。語彙を増やそうと思っていたところで介護の仕事を始めてしまい、スイスドイツ語という方言を習得することへもっぱら興味が移っていってしまった。ドイツ語そのものの語彙数はまだまだ少なく、聞き取りは今も苦労している(もちろん話すことも)。
 グラーフさんの話すスピードはゆっくりだが、次から次へと飛び出す話題についていくだけで大変だった。最近の私は、ニュースもまともに見ていない(白状すると、ふだん見ているのはドイツのこどもニュースと、ローカル局のバーゼルニュースだけだ!)。
 
「日本は大変ね、昨日は大雨だったんでしょ?」ある時、グラーフさんに言われて驚いた。つい最近、九州で集中豪雨により甚大な被害が出たばかりだったので。
「えっ、またですか?!」・・・今度は一体、どこだろう?遠く離れて異国の地で生きるというのは、すぐには駆けつけられないつらさがある。休み時間になったら、絶対にスマホでニュースを確認しなくては。今度は関東だったらどうしよう。
 私の動揺ぶりを見て、グラーフさんも慌てたらしい「あれ、違ったかしら・・・?」。
  ずっと落ち着かなかった私に、その1時間後グラーフさんは言った「ごめんなさい、大雨ね、やっぱり違った。あれは先月の話だったのね」。
 グラーフさんのお部屋には古新聞が山と積まれていて、整理されていない。今日の新聞も先月の新聞も、同じ山を成しているのだ。
 
 「私はね、始めの結婚はフィンランド人とだったけど、その夫が亡くなってね。その後スイス人と知り合って、だからスイスに来たのよ。結婚は2回してるの。もうフィンランドには全然帰ってないわ。息子は今、デンマークにいてね…(後略)」。
 プライベートに関する話題なら、私だってついていける。・・・ただ残念なことに、グラーフさんはほとんど間を入れず、ひたすら話しまくる。聞く側としては、合いの手さえ打ちにくい。
 それに、私だって質問されればもちろん答えるが、反応があるかないかよくわからないうちに、やがて次の話題へと移ってしまう。こちらから新しい話題を持ちかけたくても、タイミングがつかめない。本当は私からもいろいろ質問したかったのに、あきらめて飲み込んでしまうことも多かった。
 

レスキュー隊に出動要請!


 いいんだ、グラーフさんは、とにかく話したいんだ。私は聞いてあげれば、それでいいんだ。だからこんなにしゃべりまくっているんだ。私はそう自分に言い聞かせた。
 しかし実際、グラーフさんは面倒、という声が増えていった。グラーフさん代わってよ、と頼まれることも多くなった。最初に彼女を絶賛していたエマは、黙って何も言わなかった。そこまで見抜けなかったのだ。

 話を聞いてあげるのは構わない。内容はバラエティーに富んでいて面白いし、教養の広さにも感動する。ただつらいのは、遅番の日。グラーフさんが最後で、終わったらそのあとはもう終業までゆっくりできるはずが、講義が長引くために私がなかなか開放されないことだった。

 「9時になっても帰ってこなかったら、呼びに来てね!!」私はよく同僚にそう頼んでいた。いつも8時半ごろお部屋に行き、8時50分ごろには床についているのに、9時をとうに過ぎてもグラーフさんのお話にひたすら相づちを打っている。部屋のドアが開き、レスキュー隊(同僚のこと)が到着したのを認めると、いつもホッとした。ベッドまで歩いてきて、「イクヨ、ちょっと用事があるから来て!」と言ってくれることもあれば、私がここぞとばかりに「それではグラーフさん、おやすみなさ~い!」と強引に切り上げてしまうこともあった。

 それでも。部屋を出ようとしてドアを閉める瞬間も、まだグラーフさんの声は聞こえていた。車のブレーキと同じで、すぐには止まらないのだ!

 さらにその後、よくナースコールが鳴っていた……「あのね、忘れてたけど、窓はちゃんと開けといてくれた?ほんの5cmでいいからね、窓は開けといてくれないと、空気が悪くなるから」。
 
 ある意味、当然である。一日中、部屋にいて新聞を読んでいるか、朝と午後に廊下を歩いていって、また戻るか。それぐらいしか活動しないグラーフさんが、誰かとコミュニケーションをとりたいと切望するのは、考えてみればごく自然なことであった。(第三話へ続く)

おことわり。本文に出てくる人物名は架空のものです。プライバシー保護のため、内容も部分的にフィクションを加えてあります。

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平川いく世
神奈川県→イタリア→英国スコットランド→スイス。引っ越し回数30回以上、転職も30回以上(バイトを含む)。趣味は読むこと書くこと、ウォーキング、ヨガ、旅行、折り紙、ピッコロ。現在はスイス・バーゼル近郊に住む。