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スイスで介護ヘルパー!その22「山姥(やまんば)のようなケラーさんにどう接するか・第二話」#入居者さんの思い出

 (第一話からの続き)


ケラーさんの意思表示


 つい先日まで高齢者アパートにいて、何でも一人でしていたはずのケラーさんは、しかし、実際は「何もしていない」のだった。
 朝のルーティーン、例えば洗顔や歯みがき、シャワーはおろか、清拭(ぬれたタオルで体を拭くこと)もしない。放っておけば、着換えもしない。
 
 トイレには一人で行っていたが、失禁も時々あった。リハパン(パンツタイプのおむつ)は汚れても換えないし、陰部を拭くこともない。肌は尿にずっと触れたまま、パンツの中でむれていたので、真っ赤になっていた。そうなると私たちは通常、かたく絞ったタオルで患部を拭いてきれいにした後、クリームをぬる。
 が、これらの処置をケラーさんは極端に嫌がった。
 
 そう、ケラーさんがはっきりと意思表示をするのは、何かを拒否するときだった。両ひじを張って、口を固く結び、じっとうつむいたまま、抵抗する。それでもしつこくされると、今度は手をあげる。

 ケラーさんが唯一、口を開いて発するのは、そういう場面での罵り言葉だった。低い声でボソッと言うので聞き取れないほどだが、その表情が彼女の怒りや苛立ちを充分伝えていた。

 腕力で立ち向かう??


 このように、なかなか一筋縄ではいかないケラーさんだった。私たちの間では、ケラーさんなら着換えできなくても、パンツを換えられなくても、つまり然るべきお世話ができなくても大目に見ようという雰囲気になっていった。ふだん私たちがやっている一連のお世話をケラーさんにすべて適用するとなると、(中にはうまくやってのける人もいたが)、力ずくでやるしかなかったからである。

 実際、力ずくでやってしまうことはあった。2人がかりで体を押さえつけて着換えさせたり、オムツを換えたり。ペアを組んだ相手がそういう方針だったら、特にそれが看護士レベルの人なら、私たちヘルパーは従うしかない。
 それで、時には危険なその作業に、二人して挑むことになるのだ。

 服を脱がせようとすると、ケラーさんは抵抗する。こぶしをふりまわし、足をバタバタさせて暴れる。

 最悪なのは、私たちの手や腕に噛みついたり、唾を飛ばしたりすることだった。そうなると私たちは、どうしても手を止めて、さっと後ずさりしてしまう。
 そしてケラーさんに言う「ナイン!ナイン!そういうことは、してはいけません!やめてください!」。一応は敬語をキープするが、まるで幼稚園の先生が子供に諭すように、目をしっかり見て、指を立てて、きっぱりと言い聞かせる人が多い。

 それでケラーさんがおとなしくなる時もたまにはあったが、変わらず抵抗を続けることの方が多かった。唾が飛んできたら、ケラーさんにマスクをかけたが、取ってしまうので役に立たなかった。しばらく放っておきましょうと、いったん部屋を出て10分後にまた来るという手もあった。そのまま二人がかり、力ずくで押しまくったこともあった。
 

ケラーさんの前で豹変したハンナ


 中には、本気で怒ってしまう人もいた。ハンナという看護士は、最近入ってきた、濃いメイクの中年女性。明るく気のいい性格だったが、どこかちょっと変わったところがあった。それが何なのか、私にはよくわからなかった。

 ある日、遅番で私はケラーさんの担当になった。その夜はハンナが責任者だったので、協力してもらうことになった。歯みがきは見逃して、なんとかベッドに寝かせ、オムツ交換と着替えを行おうと脱がせた途端、また例によって唾をとばし、噛みつき攻撃が始った。

 すると、ハンナは目の色を変え、逆上したのだ。

 日本語で言うなら「ふざけんな、この野郎!」ぐらいの、相当ひどい言葉がハンナの口からまず出た。そして目をむき、ほとんど白目になった瞬間、あろうことか、ケラーさんの顎をしゃくって、叫んだのだ「今、何した?え?今、何した?もう一回やってみな!このまま放っとくよ!それでもいいんならやってみな!?おい、わかったか!!」。

 このまま放っとくよ、というのは、ケラーさんがその瞬間、Tシャツだけで下半身はオムツも何もつけておらず、ほとんど裸だったからである。このまま放っておいたら、おまえは一晩中、裸でいるんだぞ、それでもいいのか、という意味だった。

 ケラーさんの顔には、明らかに恐怖があった。おとなしくなり、抵抗をやめた。私たちはオムツ交換を終え、電気を消して、部屋を出た。ハンナは笑顔こそなかったものの、そのことについては言及せず、何事もなかったようにしていた。

 私は、ショックを受けていた。今、目にした一連の出来事を、誰かに報告するべきか迷った。いくら噛みつかれても、唾を飛ばされても、あの言動は許されるだろうか。しかも、プロの看護士が?

 ケラーさんは、もともと真っ当な人だったのだ。ああなったのは、病気が原因なのである。もちろん、他人に唾を吐きかけるのは良くないにしても、その辺の事情をハンナが知らないはずはない。ほかにもケラーさんを嫌厭する人はいたが、攻撃を受けたとしても、みんなもっと冷静だ。
 それに対し、ハンナのあの豹変ぶりは何だろう??

 ところが、1ヵ月もたたないうちに、ハンナは解雇になったのである。
 

ここの解雇事情


 私の職場では、時折こうした解雇処分が行われる。過去には、夜勤なのに寝ていたというムラート、差別的な言葉を吐いたジュリオ、何かと衝突が多かったレオン、同僚には優しいが入居者さんには評判が悪かったアベディ、仕事が遅くドイツ語レベルも低いと判断されたアナベル……。

 このアナベルだけは、まだ試用期間中だった。が、ほかはもっと長く、2年近く勤続していたケースもあったと思う。だから油断はできない。よくヘルプを引き受けるなど、日頃から会社に貢献している人は大丈夫だろうと思っていた(私もその一人)のだが、つい先日そんなアベディが解雇されたのだ。これには驚いた。

 とにかく、この5年間の記憶に残っているだけでもこんなに挙げられるとは、かなり多いような気がする。名前と顔が一致しないうちにいつのまにか消えていた人もいて、私など気づかないこともあった。

 解雇があると、その日のミーティングでごく簡単に「〇〇は、もう来ない」と口頭で通達がある。理由を述べられることはない。だからその日に私が休みだったら、誰かに教えてもらうまで知らないわけだ。

 そして我々は憶測し、シフト担当はその人なしでシフトを組み直す。

オフィスで乾杯!?


 ハンナの場合、うわさにすぎないのだが、なんでも彼女は仕事前や仕事中に飲酒をしていて、それが明るみに出たようなのだ。

 仕事中の飲酒は、禁じられている。が、何かの折にオフィスで乾杯、なんていうことが実は時々ある。誕生日や、年金生活に入るなどの機会に、本人がシャンパンを買ってきて、みんなに振る舞ったりするのだ。グラスに一杯程度、上司も一緒に飲んだりする。それで酔っぱらう人はいない。仕事にはまったく影響がない。

 が、ハンナの場合、それが業務の遂行に影響を及ぼすレベルだったらしいのだ。アルコール依存症だったかもしれない。道理で、この人はどこか変わっているなと感じたのは、その辺だったのだろうか。

 それでも、ケラーさんに対し異常に攻撃的だったことは、どうやら私しか知らないらしい。(第三話へ続く)

【読者のみなさまへ】
 今回の、このケラーさんのお話は、表現的に問題か所が多くあると思います。中には、内部事情暴露のような内容になっているところもあるかもしれませんが、どうかご理解くださり、最後までお読みくだされば幸いです。
 また、「この表現に直した方が良い」などのご指摘は大変ありがたく存じます。よろしくお願い申し上げます。

 おことわり。本文に出てくる人物名は架空のものです。プライバシー保護のため、内容も部分的にフィクションを加えてあります。

神奈川県→イタリア→英国スコットランド→スイス。引っ越し回数30回以上、転職も30回以上(バイトを含む)。イタリア語を学んだ後、日本語教師、ライター、介護ヘルパー。趣味は読むこと書くこと、ウォーキング、ヨガ、旅行、折り紙、ピッコロ。現在スイスのバーゼル近郊に長女と2人暮らし。