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日記は記憶のパッケージ/『富士日記』武田百合子

2024年6月からなんとなく日記をつけ始めています。日記といっても一日を振り返って反省する類のものではなく、朝起きてから夜寝るまでの行動――例えば食べた物や作業の内容など――を時系列で記録するものです。

私が人生で初めて継続的に日記をつけたのは中学生のとき。父から受け取ったB5サイズのルーズリーフ型手帳(年末に会社で貰ったであろう)に、その日の行動を書き記していました。

夜寝る前に「誰々と遊んだ」とか「期末テストがやばい」とか、中学生らしいことを手帳の狭いスペースに100文字くらいの短文で書いたもので、日記と呼べるのかも怪しいですが、中学の3年間は書き続けていた記憶があります。

社会人になっても思いつきで日記のようなものを書くことはありましたが、基本的には中学生のときと同じく一日の行動記録のようなもので、内省的なことや感情的なを書くことはほとんどありません。一時期「ライフログ」という言葉が流行りましたが、私の日記はそれに近いものです。

とは言え、一日の出来事を振り返り、必要な情報を取捨選択し、論理立てて書くという作業は、多少なりとも文章力向上の良い訓練になったのではないかと思ってます。


武田百合子氏の『富士日記』を読んだのは、今の日記をつけ始めて1ヶ月くらい経ってからのこと。『富士日記』は小説家の夫・武田泰淳氏と娘の武田花氏、愛犬ポコや猫のタマと富士の山荘で暮らした13年間を記した作品で、今なお根強い人気を誇る日記文学です。

百合子氏が日記をつけるに至った経緯は、エッセイ集『あの頃』に収録されている「絵葉書のように」で以下のように書かれています。

山小屋が建ったとき、もらいものの日記帳を私の前に置いて夫は言った。「百合子にこれをやるからな。日記をつけてみろ。山にいる間だけでいいから。俺もつけるから。代る代るつけよう。な? それならつけるか?」。私が首を振ると、「どんな風につけてもいい。何も書くことがなかったら、その日に買ったものと天気だけでもいい。面白かったことやしたことがあったら書けばいい。日記の中で述懐や反省はしなくてもいい。反省の似合わない女なんだから。反省するときゃ、必ずずるいことを考えているんだからな。百合子が俺にしゃべったり、よくひとりごといってるだろ。あんな調子でいいんだ。自分が書き易いやり方で書けばいいんだ」と、重ねて言った。

『あの頃』P.40

実際に泰淳氏が日記をつけたのはほんの数回のみで、日記のほとんどは百合子氏によるもの。内容はその日の献立や買ったもの、山荘周辺の動植物、人々との交流が中心に書かれており「述懐」や「反省」といった内面的なことへの言及が少ない日記です。

特徴的なのが「天衣無縫」とも評される百合子氏の表現力。もともと誰かに見せるためのものではない「日記」ということもあり、非常にストレートで飾らない文体に驚かされます。

例えば愛犬ポコを亡くしてしまい、その死に深く悲しみながらも、埋葬後に書かれた次の一文が印象的です。

ポコは、あの灌木の下の闇に、顔を家の方へ向けて横たわって埋まっている。昨夜遅くなってから、よく寝入ったときのすすり上げるような寝息がひょっと聞えたように思ったが、それは気のせいだ。ポコ、早く土の中で腐っておしまい。

『富士日記(中)』P.144

私も犬を飼っていた経験がありますが「腐っておしまい」という言葉はなかなか出てこないなあ。「腐る=土に帰る」という意味なんだろうけど、表現が独特でハッとさせられます。

もう一つ『富士日記』を読んでいて感じたのが、人々との交流が丁寧に描かれている点。山荘を訪ねてくる作家仲間や編集者はもちろんのこと、山荘での生活を支えるお店の人たちとのやり取りまで「誰が何を話した」が克明に残されています。

『富士日記』に登場する人物は、著者を含めほとんどが鬼籍に入られていますが、日記の中ではいきいきと生き続けていて、ページを開けばいつでもどこでも当時に戻れるような感覚です。その感覚が本書の魅力なんじゃないかと。

日記とは、日々の出来事や思い出をパッケージに閉じ込めて、未来に残すものなのかもしれませんな。

#読書 #読書感想文 #日記 #日記文学

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