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祇園祭の奇跡に想う
祇園祭に際して、どうしても書いておきたいことがありました。書こう書こうと思いながら、今日まで書かずにいたことを反省しながら、2023年7月17日の山鉾巡行の日に、心して祇園祭の出来事を記したいと思います。
京都の人たちは7月の祇園祭に熱い情熱を注ぎます。7月1日の切符入りに始まって7月末の疫神社の神事までちょうど1ヶ月に及ぶ日本最大の祭礼です。
祭礼期間の長さ、期間中の祭事の数、参拝者の人数、祭礼の歴史とその記録、祇園祭に関する書籍など、いずれを取り上げても日本最大の祭礼であることは間違いないと思います。
京都の人たちは祇園祭についてこんなことを言います。
「こんな有り難いことありませんわ」 「神さんと一緒に過ごす時間ですなー」
2020年のことです。こうした京都の街からコロナ禍で祇園祭が中止に、人々は空っぽの7月を迎えることになりました。町衆といわれる人々はさぞや辛かっただろうと想像します。
その次の2021年は、幣帛を背中に立てた八坂神社の神馬が鉾町(山鉾を護る町衆の町々)を周ったそうです。
TVニュースでは、町内で神馬を迎えた人たちが喜びに震えながら両手を合わせる映像が映し出されていました。あれからまた2年が経ちました。
今年2023年の祇園祭は、4年ぶりに本格実施と聞きます。京都の人たちの喜びはいかばかりでしょうか。ことによると、今年の祇園祭はこれまでの歴史でもっとも盛り上がったのではないか、とまで想像を広げてしまいます(笑)
さて、ここからが今回の本題です。
(前置きが長くなってしまいました)
時は少し遡って、2016年の祇園祭のことです。この年の山鉾巡行の日(7月17日)は日曜日でした。朝からの快晴でうってつけの祭り日和でした。
僕は友人を伴って、御池四条・京都市役所の西側から先頭の長刀鉾がやって来るのを待っていました。
鉾の辻回しは祇園祭の最大の見せ場です。これを終えた長刀鉾が御池通をするすると西へ進みます。ここでは戻り囃子といわれる早めの調子で笛・鉦・太鼓が奏されます。
2016年7月17日(日)
時間は午前11時過ぎ頃と記憶します。
その時です。長刀鉾が近づきました。
ああ、なんて懐かしい、有り難い。
ところが、驚きです!
いつもの祇園囃子ではなく、僕の耳にはまったく聞いたことがない、なんとも涼やかで、なんとも妙なるひびきが聞こえてきたのです。なんて素敵なひびきだろうかー。
心身が投げ出されたようにー
僕は心の中で呟いていました。
〈例ならず、あやし!〉
つづいて、その次です。次の一瞬、僕の目に飛び込んできたのは、金や銀のきらきらした、滑らかな輝きに包まれた長刀鉾の姿でありました。
な、なんということでしょう!
細かく切られた金や銀や虹色の紙片が吹き上げられたように高く舞っているのです。透き通ったいくつもの色彩に、きらきらと輝く長刀鉾が僕の目に入ってきました。
「こんなことがあるんだ!」
妙なる祇園囃子と金・銀・.桃色・水色の光彩をその全体に纏った長刀鉾は、僕にして神々しい神の存在をはっきりと示しました。
さらに不思議なことは、この時の長刀鉾の全体は、笛や太鼓の囃子に合わせるかのようにごく緩やかに揺れながら進んでゆくのでした。
そして、遂に、その時です!
感激に震えて立つ僕は、さらに驚きの情景を目撃しました。
それは、なんと、長刀鉾の全体が、地上から浮き上がっているという驚嘆の事実でした‼️
〈これは人生で二度とない奇跡だ!〉
〈なんと勿体ないことだろう!〉
あとから友人にも必ず伝えたいという気持ちがはたらいて、直径が2メートルもある長刀鉾の車輪を僕は出来るだけ間近から、食い入るように見つめました。
確かに僕の目は、地上から浮き上がった鉾の車輪を捉えていました。浮き上がった車輪の高さは40〜50cmでした。車輪は間違いなく路面から40〜50cm浮き上がって進んで行くのでした。
〈な、なんと、いうこと、だろう!〉
長刀鉾には祇園の神様が乗っておられるんだと、僕はわーっと声を出したいほどの喜びに包まれて立っていました。
僕の目の前を通り過ぎた長刀鉾は、車輪を浮かせたまま、伊藤若冲の旭日鳳凰図の見送りを見せて、御池通をゆっくりと進んでゆきました。
その間も長刀鉾の全体は、囃子に合わせるようにゆるやかに揺れながら、また全体を軽やかな光彩に包まれながら、御池通を西へと進んで行きました…
こんな有り難いことがあるんだと、心から祇園の神様に感謝を申し上げました。
このあと、例によって友人と新京極の飲み屋へ足を運びました。「京極スタンド」でいつもの生ビールと鱧の天ぷらを口にしたのですが、この時ばかりはあまりの感激に彼に何をどう話したかも思い出すことはできません。
おそらく友人は、この日の暑さで僕の頭がおかしくなったぐらいに受け止めたのだと思います(笑)
しかし、僕は、この出来事を通して、はっきりと知り得た事実がいくつかあります。
〈その1 〉祇園祭には神様がはっきりと存在する、いらっしゃるという事実です。
〈その2 〉京都の街のみなさんは祇園社の神様との霊的な交流によって生きる喜びを享受されているという事実です。
〈その3 〉祇園祭に関わる私たちはすべて、何らかの形で神様からの霊的な祝福を与えられているということです。
僕は人間とは霊的な存在者であると考えています。人間は一人ひとりが神聖なる霊性をもつがゆえに尊い存在者なのだと考えています。
人間の本質が霊性であるならば、霊的に大きな存在者である神様とは、言葉を超えて交流出来るのではないだろうか。
いや、人間と神様は必ずどこかでひびき合うことが出来る、と僕は信じているのです。
◆ 神さま⇆神棚や祭礼⇆人間
僕の店には神棚があるのですが、こんな気持ちでときどき手を合わせています。
神様という霊的な存在と人間の霊性との交流ー祭礼を通して人々はこれを体験しているのではないかーそうでなければ京都の街の人々があれほど熱中するはずがないと…。
今年2023年7月17日・祇園祭巡行の今日、なんと僕は眼を患って順天堂大学病院本院の病室に入院しています。
そのお陰で、ずっと書きたかった祇園祭における僕の体験をなんとか書くことが出来ました。
今日的には、神社、祭礼、社寺詣というこれらの言葉を耳にする機会は多いのですが、もう少し踏み込んで、僕の祇園祭での体験を通して、みなさんの日々のご信仰の参考にしていただければと願いながらこの稿を閉じることと致します。
2023年7月17日
京都花鳥堂樹庵/芦田ひろし