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「セルフメイドマン」とアート ー上流階級の愉しみの民主化プロセス | 自由の女神像の誕生秘話 #7

今回は、自由の女神像の陰の支援者のプロフィールを掘り下げていきます。なぜ彼はこのプロジェクトに共鳴し、匿名での支援を申し出たのか? その背景を探ると、近代以降、国家が率先して芸術のパトロン役を引き受けてきたフランスで、ある種の地殻変動が起こり始めていることに気づきます。



アメリカ資本主義と「セルフメイドマン」への憧れ


19世紀後半、資本主義は欧米で急速に発展しました。特にアメリカは、一貫した民主主義体制と自由競争市場を背景に目覚ましい成長を遂げていました。フランスでは、これを過度な資本主義として警戒する声もありましたが、一方で、そのダイナミズムを称賛し、民主主義の理想を体現するものと捉える人々も少なくありませんでした。

特に、質素な出自から成功を目指す野心家にとって、アメリカは「セルフメイドマン」の理想郷と映りました。努力次第で富と名声を手にできる社会。まさに、自らの力で成り上がった者が称賛される国だったのです。

ウド・ケプラー作《ウォール街の容赦なき商売 ― 未経験者が首を刈られる仕組み》(1911年)。この戯画には、ウィリアム・H・ヴァンダービルトやジェイ・グールドといったアメリカの「セルフメイドマン」たちが、株価に連動する大型の直刃カミソリをチェックする様子が描かれています。カミソリには「飛び込んで皆殺しにしろ」「この指標は株とともに上下する」と書かれ、刃の上には熊、雄牛、「$」マークのついた金袋がバランスを取るように載せられています。当時のアメリカ社会におけるセルフメイドマンの評価がうかがえる風刺画です。


そんな時代に、フランス・アメリカ同盟が設立され、自由の女神像の制作資金を募る活動が始まりました。その際、銅の全量提供を申し出たのも、アメリカ資本主義に強い憧れを抱く「セルフメイドマン」でした。彼にとって自由の女神像は、「自由と民主主義」の象徴であると同時に、アメリカの価値観を体現する作品でもあったのです。

この人物こそ、バルトルディが「王子様」と呼んだ、「銅の王」ピエール=ウジェーヌ・スクレタンでした。


フランスの「セルフメイドマン」、ピエール=ウジェーヌ・スクレタン


スクレタンはフランス東部の質素な家庭に生まれ、独学で非鉄金属加工を学びました。やがてフランス有数の技術者となり、第二帝政末期には銅、鉛、スズの採掘を専門とする6つの企業を統括。3,000人以上の従業員を抱える実業家へと成長しました。さらに、普仏戦争後の軍備強化という時流をとらえ、政府との結びつきを強めながら経済界での地位を確立します。

1870年、普仏戦争に国民衛兵として従軍したスクレタンは、歴史家で政治家のアンリ・マルタン(左)、レオン・ガンベッタ(中央)、その協力者シャルル・フレシネ(右)、作家シャルル・ド・レミュザといった共和主義の要人たちと交流を持ったといわれます。また、娘3人をそれぞれ政府高官や軍人に嫁がせ、ビジネス上の有力な人脈を築くことにも成功しました。


1876年のフィラデルフィア万国博覧会では「スクレタン・パビリオン」を出展し、メダルを獲得するなど名声を高めました。当然、話題の中心となっていた自由の女神像のトーチも、彼が提供した銅板によって制作されていました。女神像への銅板提供は、ビジネス的な視点からも大きな相乗効果をもたらしていたのです。

当時、国家的プロジェクトへの匿名寄付は、寄付者と受益者の相互認識を前提とした従来の寄付の枠組みを超えた、「近代的な寄付」と捉えられていました。スクレタンのように上流階級出身ではない「セルフメイドマン」にとって、匿名寄付は謙虚さを示すと同時に、愛国的行動として評価される理想的な手段だったのです。結果として彼の社会的評価はさらに高まり、1878年にはレジオンドヌール勲章を授与されています。

つまり、スクレタンの支援の背景には、アメリカ資本主義への憧れと自身のビジネス戦略がありました。自由の女神像は、単なる友好の証にとどまらず、時代の価値観を反映した象徴でもあったのです。


美術品蒐集は社交のお手前 : スクレタンの美術コレクション


スクレタンが美術品蒐集を始めたのは、1876年のフィラデルフィア万博から1878年のパリ万博にかけての時期でした。彼のような実業家にとって、美術品の収集は上流階級との交流を深め、社会的地位を確立するための手段でもありました。

いったん収集に火がつくと、スクレタンは猛烈な勢いで美術品を買い始めます。美術商の助言を受けながら、古典巨匠から近代絵画まで、当時評価の高い作品を次々に揃え、次々に買い替えていた大邸宅のギャラリーを飾りました。彼は「芸術協会サークル」にも所属し、バルトルディをはじめとする当時の著名な芸術家たちと親交を深めました。

ジャン=フランソワ・ミレー《晩鐘》(1857-1859年、オルセー美術館)。画家のアトリエを離れた時は約1500フランで取引されたこの作品は、1890年には80万フランでアメリカから買い戻されます。30年余りで価格が約30倍に高騰したこの取引は、フランス美術の海外流出に対する警鐘となりました。


こうして収集されたスクレタンのコレクションには、1881年に16万フランで競り落としたジャン=フランソワ・ミレーの《晩鐘》も含まれていました。彼はルーヴル美術館に作品を遺贈し、自らの名を歴史に刻もうと考えていました。しかし、彼の運命は思わぬ方向へと転がっていきます。


投機の失敗と美術品流出の始まり


1880年代後半、スクレタンはアメリカの投資家ジェイ・グールドに憧れ、彼が金の買い占めで莫大な利益を得たように、自らも世界の銅市場を独占しようとしました。しかし、この壮大な投機は失敗に終わります。スクレタンは破産し、3カ月の禁錮刑を受けます。

財産整理のため、彼のコレクションは売却されることになりました。1889年の競売では、《晩鐘》を国内に引き止めようとするフランス側と、獲得を狙うアメリカ側のバイヤーが激しく競り合った結果、フランスが55万3,000フランという驚異的な価格で落札します。しかし、その後フランス政府は予算を確保できず、作品は結局アメリカへ渡ってしまいました。

翌年、もう一人のフランスのセルフメイドマンが、さらに高額で買い戻すことになります。この出来事は、フランス美術品の流出が本格化する象徴的な出来事となりました。

ムンカーチ・ミハーイ《シャルル・ゼードルメイヤーの肖像》(1879年、ハンガリー国立美術館)。スクレタンは美術収集において、オーストリア出身でパリを拠点とする美術商シャルル・ゼードルメイヤーの助言を受けていました。1889年の競売ではカタログ作成を担当し、英語版では明らかにアメリカの蒐集家を意識した記述が見られます。


こうして19世紀後半、フランスがアメリカ資本主義に憧れる一方で、財を成したアメリカ人たちはフランスで美術品を買い漁りました。パリがアート市場の中心だったため、デュラン=リュエルをはじめとする美術商たちはアメリカ人を主要なバイヤーとしてターゲットにし始めました。

そして、19世紀後半にはフランスの美術品が次々と大西洋を越え、日本の開国後の美術品流出と同様の現象が起こったのです。

次回は、自由の女神像の“お返し”にまつわるエピソードをご紹介します。ここまで読み進めていただき、ありがとうございました。



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