【京都からだ研究室①】つながりとゆだねる〜歎異抄第2条とお念仏へ〜
運営メンバーとしてお手伝いしている、京都からだ研究室。
緊急事態宣言の中でしたが、対面にこだわりつつ、状況に合わせてオンラインも使いながらの開催。前期が無事に終わりました。
前期の講師はボディワーカーの小笠原和葉さん
とてもとてもすてきな方で、和葉さんがいるだけで場がすっと明るく調います。
みんながゆるみ、自然とほほえみがこぼれる。
そんな方の近くでからだを感じながら、学べたことはとても大きい期間でした。
最終日、その日は前日からの大雨の影響で始発から新幹線が止まるという事態に。
講師の小笠原和葉さんは、横浜在住。
講師が現地に来れなかった場合は「オンライン開催?」参加者の中にも新幹線で京都入りする方もいて「どうなる?」とソワソワしながらの朝でした。
・・・というのも、京都からだ研究室前期は、緊急事態宣言の影響もあり、初回から参加者の半分くらいはオンラインのハイブリッドでの開催。
2回目を予定していた日が、会場が借りられないということで日程を変更し、オンラインにしたという経緯がありました。
そして最終日のこの事態・・・
ですが、私たちの願いが届いたのか、新幹線が10時半ころから動き始め、なんとか遅れて開始できそうという目処が立ちました。
開始時間には間に合わない状況の中でも、京都を目指して来てくれた方もいました。
歎異抄第二条です。関東の弟子たちが、はるばる常陸国から親鸞聖人の教えを聞きたいと、歩いて京都まで参るという冒頭。
当時関東では、念仏についての教えが誤解されて広まり、混乱の最中でした。何が真実の教えなのか知りたい!と命をかけてまで、往生極楽の道を聞くために門弟たちがやってきます。
もちろん、鎌倉時代に車も電車もあるわけがなく、関東から歩いて京都まで来ると、順調に行っても1ヶ月ほどかかるそうです。
と歎異抄の言葉を思い浮かべながら・・・。
新幹線が止まっている・・・オンラインで会には参加できるけれど・・・
直接手が触れられる距離まで会いにゆくということ。
感染症の流行で、直接会うことが難しくなった世の中で、その場にかけつけることの大切さが少し実感を伴って感じられるようになったのかもしれません。
そんな思いを持ちながら、みなさんが、京都に集まりました。
予定を変更し、急遽瞑想からのスタート。自分自身も落ち着かなかったところがあったのですが、不思議とみなさんと坐ることにより、自然にガイドしているわたしがいました。
そして待ちに待った講師の和葉さんの到着。来られた時の空気が変わった気がしました。話始められた時の安心感。
テーマが「つながり」「ゆだねる」だったので、なおさらでした。
最新の神経理論である、ポリヴェーガル理論の解説。
副交感神経はリラックスの神経ですが、実はそれには2種類あると。
「ひとりとみんな」
人間は哺乳類であり、哺乳類は群れをなしてつながりを求める生き物。
他者とのつながりを感じて安心する。
一方で、ひとりでいる時間も必要。
これは、自分とつながるということで安心するのだなと思いました。
瞑想はどちらのつながりも感じるものだと思います。サンガの中で、つながりを感じながらも呼吸をしているわたし一人を感じる。
さらには、呼吸を通して、座ることを通して、感覚器官を通して、地球や自然とつながることにもなるのではないかと。
他者の存在とつながりながら、わたしひとりとつながること。
これはお釈迦様がおっしゃっていたことではないかと思います。
社会性を持った人間の前には"生き物としての人間”がある。
ひとりとつながるもみんなとつながるも、つまりは、いのちとつながることであると思いました。
そこに大きな安心感があると。
そしてつながりって、つながろうとmakeするところがあるけど、つながりにゆだねることが大切と。
それはすでにある縁起のネットワークに気づくということ。
私自身の受け取り方としては、それは「南無阿弥陀仏」お念仏の世界だなと感じました。
わたしが称える前から呼ばれていたこと、
それが今ここに届いていること、それに気づくこと。
南無阿弥陀仏は、大いなるいのちからのはたらきかけです。
それにおまかせしてゆだねていくことなんですよね。
「ゆだねる」って人間が一番初めに獲得する能力だそうです。
赤ちゃんがお母さんのお腹にいるときは、子宮にゆだねた状態です。大人になってから「ゆだねる」を探究することは興味深いとおっしゃっていたのが印象的でした。
すでにある「ゆだねる」を思い出すと、本来の「生きる」が思い出せるかもしれません。
和葉さんのワークから、いただいているお念仏の世界とつながりました。
中期も<わたし>のからだを通して生き物としての<わたし>に立ち返っていこうと思います。
呼吸するように、話して、呼吸するように、書いている。
そうするとめぐっていく、生きている感じがする。
生き物として生きている。
合掌
南無阿弥陀仏