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【京都からだ研究室④】「ヒモトレ」「バランス」と仏教〜本来整おうとしている身体にまかせる〜

2022年京都からだ研究室前期の振り返りです。
運営メンバーとして参加するなかで感じたこと、そして仏教へのつながりを書いておきたいと思います。

今回の講師はバランストレーナーの小関勲先生!!

https://www.kablabo.com/cat7/

ヒモトレで有名な小関先生、一度お会いしたいと思っていたのが叶いました!
やはり本や動画で学ぶのではなく、小関先生がその場にいらっしゃる中で学ぶヒモトレは奥深さの極みでした!!!

今回のテーマは「“分けられない”身体を試みる

「分ける」という言葉の意味をたどると、「本来ひとつのものを分ける」ということなんだそう。
仏教でも「分別」「無分別」と言われるように、どうしても物事を分けて捉えてしまい、部分しか見えなくなる私たちであることを、教えてくれています。

このひとりひとりのからだは、本来はひとつの個体である。
それを部分に分けてしまうところでバランスが偏り、凝りができたり、痛みの原因になったり、変な癖がついたり・・・心身の不調につながっていくんですよね。

ヒモトレによる心身の変化

ヒモトレはからだにゆるーく巻くだけで「自然と調う」というもの。
ヒモトレ のヒモは等身大に戻ることを導いてくれる道具です。
そしてからだがここにあると教えてくれます。
でもそれは、きっかけでしかないとおっしゃる小関先生。
ヒモトレ によって起こるさまざまな心身の変化に感動しながらも、実はそれは方便であるのだとじわじわ気づいていく2ヶ月でした。

ヒモをからだに巻いてみると、よく眠れて目覚めがよくなったというのがまずまずの実感。
そして、からだ全体が整った感じがしました。
そのおかげか、直後に講師として行ったセミナーの際も、変な緊張がなく終えられたという今までにない体験をしました。(ちなみにヒモは巻かずに)

ヒモトレと念仏?!

小関先生は普段スポーツアスリートのトレーニングをされていますが、
一般的なトレーニングとは違ったアプローチで、選手たちにアドバイスされています。

トレーニングの前提は「不足感」。
筋肉がない、力が弱いから鍛える…
足りてないと、「増やす」「加える」という方向になります。

一方で、ヒモトレの前提は「本来整っている、整おうとしている」というところ。
本来整っているのだから、感受観察していくと、発見がある!との言葉を聞いて浮かんだのは、仏教の受け取り方でした。

ここはお念仏(仏教)をいただいていくあり方とつながり、密かに感動。

感受、観察、発見。
すでにあるものを、思い出していくことかもしれません。

そして、ヒモトレ は何回巻いたかといった回数、どれくらい巻くと良いかという時間の基準はありません。

これはまた他力の念仏(南無阿弥陀仏)と通じるところが!!
称える回数が多いからいいのではない。
ついつい、人間は効果を得るために、用法容量を確認したくなりますし、なんとなく多い方がいいのではないかと思ってしまう。

でもゆるーく巻くだけ。時間も箇所も細かい決まりはない。巻いてみてからの変化や体験に気づいていく方が重要なんです。

ヒモを巻くとカラダに変化が起こるのは、
緊張と脱力のどちらにも関係してくるということ。
力が入りすぎているところは、力が抜けるように。
力が抜けすぎていたら、ある程度の緊張を・・・。
どちらかに偏ってしまわないように、からだがバランスをとってくれる。いい塩梅になるように調えてくれる。まさに中道ですね。

ヒモにまかせる

ヒモはお腹に巻いたり、たすき掛けにしたり、頭に巻いたり・・・
さまざまな巻き方があります。(詳しくはYoutubeをご覧ください)

https://www.youtube.com/channel/UCfWI9blzvhKwaVzoA0hY88w

ヒモを輪っかにして、ピンと張った(一定のテンションを保った)状態でエクササイズをする、からだを動かしてみるというワークもありました。
これが不思議で、その状態を保つと、からだがしなやかに、可動域が広がり、動きが滑らかになって明らかに楽なかんじ。

自分でどこかに意識を向けて、動かす、立つではなく、どこか「まかせる」ところがあると、うまくバランスを取ってくれる。

この「まかせる」は現代人が一番苦手なのではないかとつくづく思います。
「自分で努力してがんばる!」が良きこととされる今、力を入れることに慣れてしまっている私たちにとって、このまかせる、ゆだねるは課題ですね。

そんなときピンと張ったヒモはいい感じでまかせられる道具!

感激したのは正座のしやすさ。
膝の頭に巻くだけでなんともバランスよく変なところに力が入らずとも座れます。
意識で座ろうと、姿勢を保とうとしていたのをうすーくして、ひざから足先まで全体をつかって座るイメージ。
これは、正座をする機会が多い、僧侶には必見!!(笑)
わたしが取り組んでいる岡田式静坐法の型ともつながりました。

バランスボードに乗る

対面WS2回目では、バランスボードが登場!
「アドバンス」と「ココロ」の両方に乗せていただきました!

https://www.m-bbb.com/


2回目は「姿勢の勢い」について。
不安定な環境からのカラダの安定を見出す。
白隠禅師の言葉をもってこられ、動中の工夫について。
「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」という言葉があります。

http://rinnou.net/cont_04/rengo/rengo1708a.html

禅宗の修行道場では、坐禅修行の他に作務の修行があります。
この場合「静中」は坐禅、「動中」は作務といえます。動の中にある工夫は、静の中にある工夫よりも勝ると。

坐禅や瞑想のように一見、静かに座ることが生活よりも優れていると捉えがちですが、日々いろいろなことが起き、それに対応していく日常の生活もまた修行であり、精進していくことが大切であることを伝えています。

バランスボードはあえて不安定な板の上に乗って、その上でからだのバランスを見出していくもの。

はじめはバランス取りにくいものの、ゆらゆら左右、前後に揺れていたり、ぐるっと一回転してみたりして、からだ全体を使って工夫していくと、気づけば、バランスが取れるようになっていました。

最終ピタッと止まれるようにも・・・!!

しかし、やったー!!!と思った瞬間崩れるのが、人間の我というものの仕業ですね。

最後はこころのバランスボードに乗りました。
不安定なものに乗る怖さを極限まで削ったボード。

その上に乗ると、はっきりわかるというよりは、魔法にかかったように、乗った時にからだの軸ができ、気が通る感じがします。

力が分散せずしっかりとまとまる、安定して立っているかんじ。

気功でいう丹田で上下の軸が通ったような。
広がりのある抗力がうまく働いているような。

全体性とは・・・

このからだはひとつの個体。
全体性を保ちながら、ここにあります。

本来整おうとしているからだ。

方便としてのヒモトレ から、本来あるもの、指差しているその先を、体験し、実感したそんなワクワクした探究の時間でした。

そのはたらきはすぐそばにあり、常にわたしを照らしています。

南無阿弥陀仏。


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