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ネットという縁、そして浄土へ〜オンラインサロンに愛を込めて〜
わたしの今の活動のよりどころはオンラインのコミュニティである。
世間的には、ネット上にあるものは、ある意味で実体のないものと言われる。
そのまま受け取ると、何もない、目に見えず、集う場所もない、架空の世界だと。
でもそこには、ネットという網目によって、繰り広げられる交流と、豊かな世界があった。
TwitterやFacebook、Zoomなど…
ネットの世界をリアルと比較して価値が低いと否定されることがある。
たとえば、身体技法や直接身体を通してアプローチするのものは、確かに難しい。
声を出したり、楽器を演奏して響きやハーモニーを奏でることも、その場にいないと味わうことができない。
ネットの回線では表現が難しいこともある。
確かにその通りで、空気感や肌でありありと感じられる交流はネットでは味わうことは難しい。
しかし、
仏教的に言うとリアルの世界であれ、実は、実体はないものと考える。
浄土も同じ。
どこかに実体としてあるわけではない。
有るとか無いとかでは語れない。
浄土はある意味清らかな土地なので、場所のように思えるが、実は特定の場所として存在するわけではない。
でもその浄土からのはたらきは、今ここに届けられている。
わたしも以前は、ネットというつながりは、直接のつながりより、質や価値が薄いと思っていた。
そこにあるそれは、リアルにはかなわないんだと。
だけど、今の生活のわたしのよりどころはネット上にある。
不思議なこと。
他力本願寺、イマココロサロン、Templeというオンラインコミュニティのメンバーの一員である。
この3つは大元が共通している。
大丈夫であること
いまここであること
いのちから生まれてくること
そのコミュニティにアクセスすることで、一気にその世界にとべる。
そこで出会える人たち、そこで見える世界がある。
それは、直接手で触れられるものではないけれども、でも、そこにいる何か、そこに流れているものに、触れることはできる。
交流の中で生まれてくるものがある。
それはわたしの身体を通して感じられる。
そして、最後は身体をも超えていく。
いまのわたしはオンラインのコミュニティによって、支えられている。
それは、ご縁の網目とイコールである。
毎日、気づきあって、昨日までのわたしが更新されて、変化していく。
浄土や他力も同じ、手で掴むことはできない、目に見えるものではない。でもたしかに、他力がはたらいていることを感じる。
そこに身を任せると、自然と動いていく世界。
それが幻想や物語であるとしても、それはわたしにとって大切なものである。
この気づきは感染症の流行が起こったことをきっかけにして、後押しされたように思う。
ディスタンスを取らないといけないからこそ、より個が深まる、わたしが深まる。わたしが深まっていくと不思議なことに大きなつながりが見えてくる。
そして、このネットのご縁という網目の中で、
わたしがわたしとして輝ける場が作られている。
10分坐禅会での静坐法、歎異抄読書会をはじめとした、さまざまな交流の場。
わたしの生きるテーマとなることが実現する世界。
それが目に見えない実体のない場に、ご縁という網目を通して、たしかに実現していた。
自由な表現をゆるされる場、大丈夫な場があることで、いまのわたしがある。ネット上のご縁を通して出会えた、出会っている方に、こころからの感謝を。
オンラインサロンに愛をこめて。
合掌。なもあみだぶつ。