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傘を差さない彼女


「いいよ。濡れちゃうじゃん」


彼女は可愛らしい顔とは裏腹にさっぱりと答えた。
隣のクラスの、話したことのない女の子。
僕は一方的に彼女のことをしばらく前から知っていた。


あれは高校受験の日。
雨が強く降っていて、しんとした会場の中、ざぁざぁと降り注ぐ音だけが響いていた。
ペンが走る音と、時々紙がめくられる音。
あの時の空気を、僕は今でも鮮明に覚えている。
そしてその帰り道に見た彼女のことも。


試験が終わり、傘を差してぞろぞろと駅へ向かう受験生たち。
その中で僕の目に止まったのは、傘を差さない小さな女の子の姿だった。
小学生みたいに小柄で、華奢な後ろ姿。

彼女は薄い青と黄色のチェックのレインコートを着て、フードを被り少し前を歩いていた。
まるで、てるてる坊主に足が生えて、てくてくと歩いているようだ。
なんだか楽しそうにすら見える。
試験に手応えがあったのだろうか。

みんな同じような黒や紺の制服に、無機質な傘を差して歩くモノクロみたいな世界の中、僕には彼女だけがなぜだかひときわ明るく、光を放っているように見えた。


無事高校に受かった僕は、入学してしばらくしたあと、隣のクラスであの時の女の子を見つけた。
顔はよく知らなかったが、その背格好となんとなく感じていた雰囲気から、あのレインコートの彼女だとすぐにわかった。
と言っても、いきなり違うクラスの知らない女の子に声をかけられるほど、僕には社交性なんてなかったし、特に話す機会もない。
それでも廊下や行き帰りの道で彼女を見かける度に、僕は彼女のことを目で追うようになっていた。


そしてある雨の日の下校時。
朝は天気がよかったせいか、傘を持たずに雨の中校門から出て歩いていく彼女を見かけた。
今朝母に「今日は午後から雨だから傘持って行きなさい」と言われ、きちんとそれを守った僕は、母に感謝しながら、今までの人生で一番の勇気を振り絞って、折りたたみ傘をカバンから出して彼女の後を追いかけた。


「あの、これ...」

後ろから声をかけ、広げた傘を傾ける。
彼女はくるりと振り向き、僕と、僕の差し出した傘を交互に見た。

「え?」

「駅まで行くなら、入る...?」

「いいよ。濡れちゃうじゃん」

「え?」

「2人で差したほうが2人とも肩が濡れちゃうよ。大丈夫、ありがと」

「まぁ、そうだよね...。いや、でも。じゃあよかったらこれ、貸そうか?」

僕はずいっと持っていた折りたたみ傘を差し出した。
あはは、なんで。と笑いながら彼女はもう一度僕を見た。
雨で少ししなりとした髪、透き通るような目。

「わかった。じゃあこうしよ」

そう言って、彼女は僕の腕をぐいっと引っ張った。
腕を組むというよりは、背の低い彼女は僕の肘につり革のように掴まる。

「これなら、ちょっとは2人とも入れたかな」
ふふっと笑う彼女。
僕たちは歩き出した。


「傘、いつも持ってないの?」

会話が見つからず、ついそう口にしてからから、僕はしまった、と思った。

「なんで?」

「いや、あの...や、なんとなく。今日はいきなり降ってきたから、持ってなかっただけだよね」

受験の日もレインコートで傘持ってなかったし、なんて言ったら、なんだかずっと見ていた気持ち悪い奴になるような気がして、僕はしどろもどろ答えた。


「んー?うーん...うん、確かに。傘、好きじゃないかも」

彼女は少し考えてからそう答えた。

「傘って、なんかバリアみたいじゃない?」

「バ、バリア...?」

彼女が何を言っているのか、全然わからない。

「そう、バリア。なんか傘差すと、みんなバラバラでひとりって感じ。片手ふさがっちゃうし、外の音も聞こえづらくなっちゃうし。不便だし、なんか寂しくない?」

傘を差してひとりだとか、寂しいなんて考えたこと、僕は今まで一度もなかった。
初めて会話を交わした彼女は、僕の想像とはちょっと違うイメージだった。
小柄で可愛らしい、いわゆる女の子って感じの子だと思っていたけれど、彼女の予想外の答えに、どこか違う世界の人と話しているような気分になる。


「そっか」

そう答えた後、なんだか僕はその後続ける会話を見つけられないでいた。
僕はずっと、彼女と色々な話をしてみたかったはずなのに、なんだかどんな話をしても恰好がつかないような、彼女につまらないと思われるような気がする。僕が話すどの話題も彼女には似つかわしくないのではなんて思ってしまった。

勝手に抱いていたイメージと、今わずかに会話を交わした彼女が、なんとなくちょっと違っていたことに、どまどいとよくわからない落胆のような心持ちもあったかもしれない。

とは言っても、僕はまだ彼女のことなんて、まるで知らないも同然なのに。
なんとも言えない無言の空気のまま、道を歩く。


「ここで大丈夫。家、駅じゃなくてここから曲がってバスなんだ」

彼女は曲がり角で左の方を指差した。

「あ、そっか。うん、わかった」

もう一度、彼女は僕のことを見つめる。
そのなんとも言えない間に耐えられなくて、僕は目を逸らした。


「バリアの中、入れてくれてありがと。傘、ちょっと好きになった」

彼女は、にやっと笑った。

「あ...えーと、またいつでも!ほら、僕が差したら片手塞がらないし!」


あはは、なにそれ。彼女はさっきと同じような調子でそう言って笑ってから「また明日ね!」と駆け出していった。

彼女の後ろ姿はやっぱりなんだか光って見える。
あの明るさは青と黄色のレインコートのせいじゃなかった。
さっきまで、想像とちょっと違ったかもなんて思っていたくせに、僕はやっぱりその後ろ姿を見て、目が離せなくなってしまう。


彼女の片手をふさぐのは、傘なんかじゃなくて僕の腕がいい。
つり革のように掴まれて、そこだけちょっと暖かくなった制服の肘の内側あたりを撫でながらそんなことを思ってから、急に恥ずかしくなって、僕は制服をパンパンと叩き、なんでもない顔をして歩き始めた。

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