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私はまたできもしないのに全人類の幸せを考えていた


最近、自分の投稿する記事の中でなんとなく「これはたくさん読んでもらえるんじゃないかな」「これはあんまり興味がある人いないだろうな」という感覚がわかってきた。

と言ってもだからといってそれを狙って書けるわけではないのだが、完成した文章を見て、なんとなくそう思うのだ。
最近は「うーんこれはちょっと微妙そう」と思ったものは、土日など比較的全体的にnoteに触れる人が少なくなるように感じる日に持ってきたりしている。


以前まで私の中での「これがいけそう」感はことごとく外れていた。
それっぽいことが書けた気がしていたのに肩透かしのような気分になったり、いや〜くだらないことを書いちゃったなと思ったものが沢山のスキやコメントを頂いたり。
なんかやっぱり私、感覚がずれてるな、と日々の頂いた反応を見ながら思っていた。

しかし最近その原因がうっすらとわかってきたような気がするのだ。
それは、私がいけそう!と思った記事の特徴と、うーんどうかなと思いながら投稿した記事の特徴を考察してみるとなんとなく浮かび上がってきた。


私は今まで、これは自分の独自の考え方であろうという物の見方や考え方の話、書き方のタッチでいうと、ちょっと真面目なあまり波のない構成のものに勝手な期待を寄せていたのだが、今こう振り返って書き起こしてもわかるように、そんな独りよがりな持論をつらつらと展開されたって「知らんがな」である。
なぜ私はそのような文章に多大な期待を寄せていたのだろうか。

そんなことを書いている時よりも、ビスケットを遊びながら食べてみたり、タオルケットが破れちゃったよ〜なんて言っている方が圧倒的に手応えがある。
今まで「そんなくだらない話を書いてもな...」なんて思っていたが、くだらないということはありふれているということだ。
そしてありふれているということは、同じ経験をした人やそれを身近に感じる人が多いということでもある。
そのような他人の中にあるささやかな自分との共通項が楽しい気持ちや興味に繋がるのかなと最近になってやっと気づき始めてきた。


しかし、何気ない話や面白いおかしい話というのは、大きな波が伴う。
「これが大好き!」と書いてそのことが嫌いな人がそれを読めばえ〜?と怪訝な顔をするかもしれないし「こんなことがあったんだよ、ぷぷぷ」なんてちょっとふざけた調子で言うと、真剣にそれをやっている人だっているんだぞ!と憤りを感じる人がいるかもしれない。

そんなことを思って、厳密に言うとその反応が返ってくるのをなんとなく恐れて、私はきっと真面目で平坦な、誰にも怒られないようなそれっぽいことを書こうとしていたのではないだろうか。


ここまでたどり着いた時、私の中にたまに出てくる「おばあちゃん」みたいなやつがいるのだが、そいつがまたひょっこりと現れた。

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