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ボクシング
ボクシングの金メダルを伝えるニュースに「女性でも殴り合い好きな人がいるんだね」とコメントした解説者は、世間の不興を買って謝罪しました。
他人の金メダルをかじった市長のもとには1万件超の苦情が寄せられ、市長は給料減額に追い込まれました。世の中には、この種の公憤があります。
当然だ。私だって、彼等の言動に眉をひそめます。でも、どこかに少しの違和感もあります。怒りとは、本当はもっとパーソナルなもののような気もします。
パーソナルでなくなれば、それは純粋さや切実さを失ってしまう気もして、炎上を伝える記事を読みながら、「怒るべき立ち位置」について考えています。
社会と文化の現状は人間を甚だ神経質にしている。そこで怒も常習的になり、常習的になることによって怒は本来の性質を失おうとしている。怒と焦躁とが絶えず混淆している。同じ理由から、今日では怒と憎みとの区別も曖昧になっている。(三木清「怒について」)
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