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食べないけど断食ではないし、持たないけどミニマリストじゃない

3月は飲み物中心の生活をしていました。
体重は4キロほど減りました。
以前は10日間飲み物だけで9キロ減らしたりしていましたが
我慢して継続したわけではなく
ただ食べなくても何も問題はない、ということが前提にある状態で
飲み物を選んでいただけです。

落ち着いて自分の食欲と向き合えば
そのとき湧いている食欲が、外部刺激によって起きているだけの
偽りの食欲であることが多いです。
それがわかってくると、食べる必要がほとんどないことに気付きます。

これはダイエットや断食のように
カロリー計算や目標体重などはなく
継続日数を自慢するものでもない。

無理して頑張るイメージもなく
食べたくなったら食べるし
何を食べてもまったく問題ないわけです。

不食をスピリチュアル的にとらえて神格化することなく
毎日何かを食べていること自体が不自然である、ということに気付けば
そのうち、人間は食べなくても生きていける
ということが腑に落ちてきます。
あとは食べるも食べないも同じことです。

4月は固形物も食べてはいますが
買い物に行くことで、外に出る、店内を歩く
という行為を重視して楽しんでいるだけで
食べ物を買わない日もあるし、何も買わずに店を出た日もあります。

そして、物を捨てる、部屋を片付けるをやっていますが
意識してミニマリストを名乗るつもりもなく
ただ物を減らしてスッキリしたくなっただけであって
その先のメリットを享受するためにやったわけではないのです。

どうしても配信上はメリット・デメリットなどのお話をしがちですが
あくまで純粋動機や、それに近い感覚の「条件付きではない」
ところから湧いてきた行動なのです。

不食、ミニマリスト、ポリアモリー、貨幣のない世界など
条件を外していくと見えてくる世界を、誰かに伝えようとすれば
言葉に頼らざるをえないのですが
その根底にある理解は、非二元的なものに近いような気がします。

不食=何も食べなくても生きていける
ミニマリスト=何も持たなくても生きていける
ポリアモリー=すべての人々には愛される価値がある
貨幣のない世界=すべての物やサービスを誰もが無料で利用できる

これらは当たり前のことなのですが
二元の世界では不足や不自由を体験させられ
見えなくなっているのです。

かといって無理に食べない、無理に捨てるなどとしなくても
行動が湧き上がってくるときは自動運転状態で
やるべきことをこなしていくでしょう。

だから、不食によって霊的能力を授かった
物を減らしてお金持ちになった
などとアピールする必要もなく
自然と誰もが真理を求めるように
一人、また一人と気付いていくことでしょう。

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