歴史寓話に取り組む現在的意義について
比那北幸(ひなきた こう)
はじめに
歴史寓話とそれについての語りは公的な場においては、基本的に非明示的に行われてきた。だから現在、筆者ひとりが言明している状況においての反応の類も非明示的であると思われる。これは何の根拠もなくそう主張するものではない。観察した限りでそのように認識できたため、一応結論づけた結果だ。これが何故このように対応されるのか、いくつか仮説を立てることはでき、またそうした仮説は歴史寓話自体にも適用可能であるはずなのだが、やはり明確に言語化されない以上、判然としない。曖昧模糊として不明瞭である。だからこうした状況を「対象」達がどのように捉えているのか詳細は不明なままであるし、個別の内心となるとさらに輪をかけて見当がつかない。実際、「対象」達は何を考えているのか?
わからない以上、誤りを恐れず/恐れながらも推測するか、無視するしかない。限界線は精々「断定しない」程度であって、それ以上の精度は望むべきではない。相手が明確に意志を表明しないとき、最も穏当な対応がこの水準だろう。筆者の主題の抱える重要な要素のひとつがこの「精度」であるのだが、だからこそこういった状況下で活動することに困難と困惑と疲労を覚える。「高い精度」を求めながらその条件が与えられないまま大雑把な、不明瞭な表現に注視し続けなければならないもどかしさと格闘しながら、着地する場所は確度の低い推測でしかないという一種の虚しさ。打鍵する前から成果の精度がその程度だとわかり切っていて、それでも打ち始め、打ち続け、打ち終えなければならず、返ってくる反応「らしきもの」は不鮮明な「どうやら反応されているらしい」という推測なしに判断できないものばかりだ(それさえわかり切っていると言える)。何をどうすれば状況を変えられるのか。とにかく成果を出し続けること、分析をし続け、提示し続けること、活動し続け、歩みを止めないこと。成長を止めないこと(そのためにいくらかの犠牲を払ったとしても)、そうして前進するうちにどこかに突破口が
開けることを期待するしかない。などとまるで自力救済のない救助を待つまでの絶望を書き連ねてはいるようであるが、実際に打つ手がないわけではない。要約すれば、継続は力であるから、継続するための力をどのようにかして手に入れながら、有効な手段を順次/その都度考案、選別、実行していくということになる。
筆者が拙いながらも歴史寓話について書き始めてから5年以上経過した。ここでこれまでの推測をいくつかまとめて提示しておこうと思う。ポイントは時間の経過と状況の変化である。これらについて論じることによって、筆者が歴史寓話について「まさに今」言明する意味を示し、歴史寓話がおかれている現状についての推測を詳らかにし、歴史寓話とそれについて明言することの未来予想を描写しておきたい(それによって/そのように書くことが、筆者にとって継続するための力を得ることにもなり得るのである)。
話し合われないということは状況認識の共有もできず、危機の性質も対処法の検討も各自で行うしかないということだ。言明しないということはコミュニケーションに余分に時間を費やし、早期の発見と解決とを促進する条件を満たさないということだ。社会現象や社会的大事件に発展してようやく共有される状況では、徴候は見逃されるか鋭敏に察知した小数者のみが認識し、あらゆる対応と反応のすべてはそれら少数者に委任されているということだ。もし仮にこれらをスピーディに行えるとしても歴史寓話に無理解な層へ至り展開する活動は不可能である。従来的な方法論は伝達コストが高過ぎ、効果は望めないだろう。本末転倒である(目的がなく効果も期待していないのであれば話は別だが)。そしてこうした疑義に対し、明示的な反論は為されない。そうした理由で、筆者はひとり、調査し、思考し、判断し、仮説を立て、検証し、論を発展させ、その射程と効果を推測し、欠点と問題を洗い出し、改良を加えるアイディアを閃かせ、それらを記述し、個々の論として提出するだけでなく体系として提示し、歴史寓話をひとつの専門分野として確立すべく前進しながら、コンテクストを掘り起こし確認し、状況と照らし合わせて問いを発したとしても尚、他者からの明示的な反応は期待できない。自ら問いを発し、自ら答えを探し、それに推測というかたちで自ら答えることが許されるのみである。筆者の如き非才の身が演じるにはなかなかに壮大な一人芝居である。
随分前置きが長くなってしまった。このあたりで筆者の一人芝居の一幕こと、本題に入るとしよう。
問題
前述したように、ポイントは時間の経過と状況の変化である。これに歴史寓話に関連する基礎条件である「非明示性」を加味し、その場合に発生すると思われる諸問題について、以下に記述する。
第一に、人間には寿命があり、作者はいずれ証言できなくなる。歴史寓話に関して作者本人に確認を取ろうにも鬼籍に入られては如何ともしがたい。また時を経るにつれて当時の事情や状況に精通する人が減少し、記録が困難になり、正確な理解の前提が喪失する懸念がある。これは状況が継続するほど
危険と被害が増大する。継続するほど記録されない期間が延長するからだ。作者が言明する機会の喪失は、立証と詳細な検討機会の喪失につながりかねない。
第二に、以上の内容は研究者・批評家なども同様であること。また、(こちらの方か筆者はより深刻だと思うのだが)論者が言明する機会を寿命によって喪失するだけでなく、そもそも論者が言明しないこと。「自明とされている前提を疑う」ことを知的姿勢(を構成する要素のひとつ)とすると、知的営為を担うはずの論者達が何故揃って自明の前提に従属し続けているのか理解に苦しむ。筆者はそもそも「歴史寓話を構成し成立させる前提」に対しても疑問を差し挟む立場であるが(「企て」とはそのような立場でこそより重要視されうる)(註1)、研究者、評論家に類する立場で言明を回避する正当な理由が思い当たらない。この態度は知的営為としてどのような正当性があるのだろうか。
この姿勢は正当性が不明であるのみならず実害を生じさせている。というのは、論じられていないことで論の蓄積が為されないため、継承、発展、検索に支障をきたし、論自体の後継が困難となっているからだ。学術とは過去の蓄積があってはじめて発展していくものであるが、各論者の認識や思考の成果が明示的には記録も公開もされない現状において、歴史寓話はその論ずるべき内容の豊穣さに比して論述の量と正確さに欠けると指摘せざるを得ない状況にあると言えよう。特に論の不正確性は重大で、それが何について論じているのかが不明瞭であるがために、非常に有用な基礎文献でありながら発見不能という事態が生じかねない。まして「専門的研究者が読むべき基礎文献リスト」の制作など皆無である。継承、発展どころか学としての専門性の成立さえままならぬ現状。このような状況に対処せず、慣習に流されるまま放置し続ける姿勢を怠慢と称すことを中傷と言えるだろうか。
この点についてさらに考察を深めてみよう。歴史寓話は歴史的内容を包含するので政治的内容を含む。各メディア・ジャンルの事情が様々であれ、それが好ましく思われていないと仮定する。するとファンや出版社、編集者など関係者や消費者との関係を吟味すれば隠蔽することが正しい。(註2)そしてその正しさに、研究者、論者、批評家が迎合したのではないか(なかには歴史寓話に無理解な者もいたろうが)。そうした抑圧的状況と呼べるなかで政治的メッセージを伝達する装置としての歴史寓話という表現形態を維持するためには、それを暗黙の了解とする姿勢に正当性があったかもしれない。
それによってこそメッセージを受け取り、また発信していく主体となる経路が確保された事例が数多くあったと考えられるからだ(そうでなければ現在のようにどの物語を見ても歴史寓話というような自体は生じなかっただろう)。(註3)発信するに至らないまでも、受信者としてメッセージを受け取り続けるケースも、無論あったはずである。それらの要因を材料としてそうした立場を擁護することも不可能ではない。しかしながら、筆者はその立場には立たない。筆者は既に状況は変わったと認識するからだ。情報社会はマスメディアに従事する者達の取捨選択に依らず政治的メッセージも含めて情報を伝達し、コミュニケーションを成立させている。もはや抑圧的状況を脱しつつあるとすれば、隠蔽を正当化する前提が無化されるだけではなく、歴史寓話それ自体の役割さえ終焉し、存在理由が異なるかたちに変わるかもしれない。歴史寓話に関して、論者が暗黙の了解として維持する意味は喪失し、制作者が制作する意味は変容を余儀なくされるのではないか。どのような立場であれ、情報環境の激変によって「歴史寓話に言明しないこと」の正当性は再検討を要すると思われる。
そして第三に、以上のような認識を問うたとしても、明示的な対応はなく、議論も発生しないということ。既に述べたように非明示的コミュニケーションはアクチュアリティを失い問題解決において非効率かつ不適当である。公開も討議もできないのではなく「しない」のでは、どのような状態に陥ろうが自業自得であろう。知的営為とは、文化的営為とは、論ずる役割とは何なのか、と思わず衝動にかられ問い質したくなる心情もなくはないが、ここは現状において可能な限りもっとも生産的であろう「一人芝居」を継続することとする。
歴史寓話を制作、流通する側については「売上に影響しかねない」というのが隠蔽の理由としてまず考えられる。経済的理由は常に重大であり、不当に軽視しては適切な判断を下せず、重大であるからこそ好転の見込めない変化は歓迎されない。情報社会化による政治的メッセージの流量増大とコンテンツの政治性の明確化は峻別すべきであり、商業的要請による抑圧が働くことはまったく不思議ではない。論じる側がそれに歩調を合わせることも同様である(この側も同様のメディアや営利企業に利害関係があるなら尚のこと)。あるいはこのような状況に無自覚であるケースもありうる。その場合、政治的メッセージの流通状況に無自覚であっても商業的利害状況に変化はないため、大差ない。(註4)論じる側が惰性でこの姿勢を保っていたとしても、それによって大きな損害が生じるとも思えないので、特に見咎められることはあるまい。個々の職業的倫理や、知的・文化的営為に関しても、全員が歩調を合わせている以上責任を問われる危険はない。(註5)そして第三の問題とは、以上のような仮説や論述の成否が議論の俎上に載らず検証されないが故に、信憑性が担保される機会を持たないことをも含むのである。
以上の問題を総合すると、以下のような結論が仮説として得られることとなる。歴史寓話を明示的に論証したとしても、信憑性を得る機会は存在しない。だが、これは第四の問題と呼べるのだろうか。誰も問題ととして取り上げない以上、問題は発生していないのではないだろうか。第一から第三までの問題とした内容も、実は筆者の杞憂に過ぎず、つまり問題でも何でもなく、事態は順調に推移しているのではないだろうか。はたして問題は、本当に存在するのだろうか。
おわりに
問題があろうがなかろうが、筆者は活動を継続し、取り組み続けるのみである。いや、やはり「自明の前提を疑う」という姿勢を貫き通したく思う。それだけでなく、敗戦以来の日本における文化的営為の記録を蓄積・体系化しひとつの専門分野として確立したいと思う。歴史寓話にはそれだけの規模があり、豊かさがある。(註6)その巨大さは、驚嘆すべき日本文化のひとつとして記録すべきであり、打ち捨て忘却するにはあまりに惜しい。また世界に稀に見る文化現象をただ指を咥えて見ていることに耐えられない。文化に魅了されてしまった者の末路とでもいうものか、行き着くところまで行くしかないという心境である。
ところで、このように「歴史寓話に取り組む現在的意義について」記述することはできたが、記述することそのものの意義とは何だったのだろうか。歴史寓話の主題については明示的な反応が期待できない以上、筆者自身がその意義を見出さねばならないのだが、どうもまるで見当たらない。今のところ唯一確実な手段は、未来の筆者自身に託すことだけだ。筆者はこの論述にどのような意義や効果を期待しているのだろう。いつかそのことが理解できるといいと思う(こう書いておきながら意外に早く理解できたとき、拍子抜けではあるが、そのときは笑い話にでもすればよい。誰に話せるわけでもないが)。
書きながら考えていたことを思い返せば、筆者は「書くために書いていた」のでもあり、「これから書くべきものを書くために、書いていた」のでもあって、同時に「書かざるを得ないものを書いていた」。どれも正解だが、どれでもない正解もあるだろう。今は、決着をつけるために、この記述に相応しい終わり方を考えながら、書いている。とは言うものの、もはや今この場で話題にするべきことは尽き果てた。これからも状況はあり続けるだろう。そして作品は作られ続けるだろう。そうなれば筆者は書き続けるだろう。書き進んだその先に、未だ望めぬ景色があるのかもしれない。それは確認しに行くぐらいの価値はあるのではないか。
(註1)「手塚マンガの風刺性を検証する――『地底国の怪人』の場合――」参照。
(註2)手塚に関しても決して言明したわけではなく、制作者でありながら率直さに極めて近い姿勢を保っていた、と言えよう。
(註3)特に商業の場合はそうである。だが商業ベースでないからといって歴史寓話でないとは限らない。
(註4)あけすけに言えば「明かせば売れる」となれば明かすのかもしれないが、それがどのような状況なのかは筆者の想像の外である。である以上、商業的利害関係者から歴史寓話の明確な開示が為される可能性があるとは考えられない。
(註5)この姿勢もこのように指摘する姿勢も、共に非常に日本的ではある。
(註6)漫画においては「漫画家についての漫画」と見做されることのある冨樫義博『HUNTER×HUNTER』における「念」が「歴史寓話についての理解を含む漫画家としての能力」であると筆者は推測している。「念」という字の構成成分は「今(=現在)」「心(=日本)」となるからである(「心(=日本)」については「手塚マンガの~」参照)。つまりそれだけ「ハンター=漫画家」にとって重要かつ基礎的な能力の一部を為すと見做されているのだろう。