孤独と絶望の果てに人生が一転した話
なぜあんなに、いろいろ決めつけて生きていたんだろう。
「わたしなんか、どうせ何もできっこない」
「わたしなんか、どうせなにをやってもうまくいかない」
「わたしなんか、どうせ誰からも愛されない」
バブルのころに就職した会社では、「女の子」の仕事は、営業のおじさんのいうままに伝票を切ること。でもそれ以上に大事なのは、お茶を上手に入れられて愛嬌があることだった。
笑わずに仕事をしているだけで「かわいげがない」といわれた。
営業のおじさんのミスまで「女の子」のせいにされる職場だった。ミスをしたら鬼のように叱られるのに、「真剣」に仕事をしているだけで「かわいげがない」だと?
そう思ったけれど、でもわたしにはこれしかできない。いや、これだって満足にできるわけじゃない。
お茶はよくこぼしたし、コピー機はしょっちゅう詰まらせたし、カーボンの上でメモを取って下の書類を台無しにもしたし、伝票の数字を1ケタ間違えるなんて日常茶飯事だった。
誰もができるような事務作業が、わたしにはできない。
◎クリエイターに憧れて転職
世の中を変えるようなすごいことをやりたいなんて思っていたわけじゃない。そんなことをやり遂げる人は、自分とはまったく別の人間で、そんな大それたことが自分にできるわけがない。
それでも、なにかしら「仕事をして社会の役に立っている」と感じたかった。仕事に「やりがい」?そんなもの、わたしをひっくり返して振り回しても、どこからも出てこない。
会社を辞めて、クリエイティブな仕事を求めて行きついた先はゼネコン設計部でのCADオペレーター。
自分が図面に書いた建物が形になるというのは、それまでにはなかった達成感。完成をチームで喜び合う感覚を味わい、「やりがい」らしきものをはじめて感じた。
ただやっていたことは、クリエイターの真似事にすぎない。建築の資格がなければ、線一本自分の意志では引けなかった。
これなら、おじさんに言われるまま伝票を切っていたころと何ら変わりはないのではないか、とあるとき気づいてしまった。
◎結婚して「勝ち組」になったはずが…
1年半ほど勤めたあと、同じ部署の社員と結婚して仕事を辞めた。今なら結婚で仕事を辞める方が少数派かもしれないが、まだ寿退社が珍しくない時代だった。
相手はいわゆる3高(高学歴・高収入・高身長)。世間的に見れば、「勝ち組」といえる結婚だったかもしれない。
自分でもそう思っていた。もうこの先は安泰だと考えてほくそ笑んでいた愚かなわたし。結婚の意味も幸福の何たるかも、何もわかっていなかった。
当然ながらそう甘くはない。
結婚相手は転勤族で、地元名古屋で結婚して1年半後に大阪支店に転勤。と同時に、現場勤務となった夫は単身赴任をはじめた。
初めて住む土地で、知る人もいない生活の孤独さ。その闇の深さは、今のようにスマホやSNSで簡単に人と繋がれる時代には想像もつかないだろう。
手っ取り早く孤独を解消するなら働くのが一番だったが、無謀にも子作りを優先してしまった。結局子はできなかったが、できていたら寂しさが解消されるどころか、ワンオペ育児で心が壊れていたかもしれない。
一日が長く、咳をしても一人、あくびをしても一人だった。
今ならSNSでいくらでも時間が潰せるが、夫からはインターネットを禁じられてプロバイダ契約もしていなかった。
テレビと本だけがお友達の日々。絵(植物画)を習い始めたことがきっかけで仲間ができた。ようやく孤独が解消されたころ、東京本社転勤の辞令が出たのである。
◎少しずつほころびだす毎日
20代最後の年に千葉県に引っ越し、やっと夫婦で暮らせるようになった。しかし結婚生活の半分以上は週末しか会わない生活が続いていたので、ここからが本当の結婚生活の始まりだったといえる。
簡単にいえば、ここから7年かけて坂道を転がるようにうまく行かなくなっていく。
結婚するときに「自営業と勤め人の家など、金銭感覚の違う結婚は難しい」などと助言してくれる年長者もいたが、盛り上がっているときには「なんとかなる」と思ってしまうものだ。
夫は北関東の農家の三男坊でわたしは名古屋市内に住む会社員の娘。
今思えば付き合っているときから、彼とはうまく行かないという警告音が何度も鳴ったのに聞こえないふりをしてきた。
2人暮らしが復活してから、徐々に価値観の違いが浮き彫りになり、やがて埋められない溝となっていく。
◎2人暮らしで感じる救いのない孤独
社宅だったので近隣と付き合いがあり、孤独は感じなかった。すぐに絵を習い始めたので知人もたくさんできた。それでも関西との距離感の違いだろうか、友だちと呼べる人はなかなかできなかった。
「家を買おう」と夫が言い出し、運よく大手ハウスメーカーの注文住宅付き土地の購入が決まった。約半年かけて間取りから作り付けの家具、外壁、壁紙から建具に至るまで、一つひとつ自分たちで選んで決めて行った。
その充実感で時間はあっという間に過ぎた。
何かを大きなことをするときに人は、今より生活がよりよくなることを期待する。家を買うときなどはまさしくそうだろう。
持ち家さえあれば、すべてうまく行くという幻想を抱いてしまった。どんなダメ男(女)でも結婚すれば理想の夫(妻)に変わってくれると、つい期待してしまうように。
新しい家に住んですぐに、わたしは再び孤独に陥った。
夫は帰りが遅く、休日はたいてい寝ていた。口を開けば愚痴ばかり。たまに休日にどこかに出かけても急に不機嫌になり、一人で帰ってきてしまう。そんなことが毎回繰り返された。
「彼は忙しくて疲れているのだ」と理解しようとはしていた。理解はできても、心の寂しさは埋められない。
一緒に暮らす人がいるのに心に影を落とす「ひとりぼっち」という感覚。それは一人で過ごしていた頃よりも救いがなかった。
いつか2人で暮らせたらやりたいことを夢描いていた。その生活がかなえられることはないと気づいたときには、絶望しかなかったのだ。
◎孤独の中で描き始めた4コママンガ
家購入後はローンのためにパートでCADオペをして働いたりもした。
世の中には働く女性と母親の2種類の女性しかいない。そのどちらにもわたしは「気楽でいいわね」といわれた。
キャリアもないママでもない中途半端な存在は、マイノリティだ。30代半ば、今さらキャリアは積めない。子作りも努力はしたが夫の協力が得られず、もう無理だと悟った。
夫とはすれ違い続け、そのうち休みも一緒に過ごさなくなり、食事も一緒にとらなくなった。
何のために一緒にいるんだろう?
わたしは一体、何のために生きているのだろう?
わたしの人生、こんなはずじゃなかったのに…
喉の奥から声にならない感情が口元までつきあがってきて、そのまま誰もいない4LDKのリビングで慟哭した。
離婚の2文字が頭に浮かぶたび打ち消した。
孤独と絶望の中で、わたしはひよこが主人公の4コママンガを描き始めた。思えば絵を描くことで、いつもつらいときにわたしは救われてきたのだ。
毎日あまりにも楽しいことがないので「一日に一つだけ、何か笑えることを見つけて描く」をテーマに、当時はやり始めたブログで描き続けたのだった。
◎救われるために描き始めたマンガが意外な展開に
何か物事が動くときはいつも、最悪の事態のときだ。うまく行っているときに、パチンコのフィーバーのように連鎖で起こることは想定内でしかない。
想定外のできごとは、いつもどん底に落ちたときに一発逆転で大谷並のホームランを放つ。
新居に住み始めて3年目、近所の人に押し切られるようにして町内会の役員になった。役員の大変さはここに書き記す価値はないので端折るが、わたしの人生を変えたのは、このときの出会いだった。
役員の理事をしていた男性が「あなたのような有能な人が働くこともなく社会に出ないのはもったいない。何か勉強してはどうかだろうか」と、大学の社会人講座で学ぶことを薦めてくれたのだ。
ブログの文章がうまくなりたくて、某大学のライター講座に通った。通ってみてわかったのは、文章を教えるのではなく、本の企画を立てる講座だったこと。
企画を立てて、実際に出版社の編集者を呼んでプレゼンもした。
なんと、わたしのひよこ漫画を気に入ってくれた編集者がいて、出版に向けて動き始めたのだった。
残念ながら、この時の出版話は立ち消えになった。しかしこの講座がきっかけで知り合った別の編集さんからイラストの依頼があり、30代後半にして、わたしはイラストレーターになれたのだ。
つらい毎日の癒しで描いていたマンガと、断れずに引き受けた役員がきっかけで、憧れていたクリエイターになれるなんて、いったい誰に想像できただろう?
◎離婚の理由は「家を買ったから」
その後、わたしたちは離婚した。
離婚の中にはDVや浮気や借金など、どちらか一方に非があるケースもあるが、わたしたちの場合は、どちらかが一方的に悪かったわけではない。
世間的に見て明らかに「悪い夫」や「悪い妻」だから離婚するとは限らない。お互いの求めるものに相違があれば、結婚生活はうまく行きっこないのだ。
まず育ってきた環境が違いすぎた。
家を買うときに、わたしはマンションでいいから都心に住みたいと主張した。けれど、彼は間口の広い一戸建てに住むことを譲らなかった。
今も忘れられないのは、夫が「都心に住みたいなんて堕落している」といったこと。隣の家に歩いて5分以上かかるような山間部に生まれ育った夫には、都会に生まれ育った人間の感覚が理解できないのだ。
そうして買った家は、社宅よりさらに東にあるJRの駅から私鉄に乗り最寄駅から歩いて15分かかった。
そこがどのような場所だったかといえば、あまりに目印がなさ過ぎて、宅配業者が道に迷って電話をくれるようなところ。人を招いても、最寄り駅まで迎えに行かなければ、自力ではたどり着けない場所だった。
家に関しても、凝った家に住みたいわたしと無難な家がいいという夫の間でことごとく意見が対立した。結局ほぼわたしが折れる形になったことで、沸々と不満が澱のように心に残り続けることになる。
離婚の原因は1つではなく、小さな不満が積もり積もった結果だが、きっかけは何か、と問われれば「家を買ったこと」といえるかもしれない。家を買ったことで、価値観の違いがどうしようもなく広がっていったことが、離婚へのトリガーとなったのだ。
◎再婚してハッピーエンド、は物語の中だけ
離婚して、わたしは働きながら都内のイラストスクールに通い、卒業後はイラストレーターとして本格的な活動を始めた。
その中で出会った人々の中に生涯の仲間や友人と呼べる人たちが現れたことも、思いがけない収穫だった。離婚から現在に至るまで、わたしは一度も孤独を感じたことがない。
とある飲み会で、今のオットと知り合った。当時の彼は会社員でSE。好きなバンドが同じなことから意気投合し、出会いからたった8カ月で結婚した。
二度目の結婚をしてあらためて、わたしは最初の結婚を終わらせてよかったと心から思えた。オットのことは、今までにもこれから先にも絶対にこの人以上の人は現れない、と断言できる。
「かけがえのない人」であるということは、収入や学歴や家柄などで決まるものではない。
ただ一緒にいて、楽しい想い出だけが増えていく。その「想い出」と「一緒にいればいつも楽しい」と信じられることだけがすべてなのだ。
物語ならば、ここでハッピーエンドで幕を閉じるだろう。けれど現実とは、かくも過酷なものなのだ。
◎病の夫を抱えて実家へUターン
オットが倒れた。
彼は成人型アトピーといって、重症化しやすく完治も難しいタイプのアトピー患者。このまま会社員を続けさせてよいのか悩んだ末に、わたしは大きな決断をした。
住んでいた都内から名古屋のわたしの実家に引っ越し、彼には写真の専門学校に通ってもらうことを決めたのである。
と書くと唐突感があるが、もともと彼は写真が好きで、ギャラリーの主宰する写真部に所属。新聞社の専属カメラマンが主宰するワークショップにも通い、カメラマンの先生からもかわいがられていた。
何よりわたし自身が、彼はいい写真を撮ると確信していた。だからこそ、イチかバチかの人生をかけたギャンブルに二人で身を投じることにしたのである。
とはいえ、その後も順調ではなかった。
彼は卒業間際にアトピーが再度悪化して4カ月ほど寝込んだ。もう卒業できないと思ったし、この先はどうなるかと眠れない日々を過ごしたりもした。
◎どん底で感じた充足感
25歳で最初の結婚をして以来、わたしは半生のほとんどを2人の夫に依存して生きて来た。「自分には何もできない」と信じていたわたしは、自分の役立たなさにいら立ち一人で落ち込む「悲劇のヒロイン」状態だった。
そんなわたしが、オットが卒業間際に倒れた時に覚醒した。要するに、はじめて「自分がどうにかしなくては」と思ったのだ。
オットの闘病の話をすると「えらいわね」とほめられることが多い。「大変だったでしょう」ともいわれる。確かに大変だったかもしれないが、不思議と不幸ではなかった。
彼が二度目に倒れたときのわたしは、イラストレーターとは名ばかりでほぼ無収入だった。収入を得るために、派遣会社に登録してCADオペやWeb、常駐ライターなどの仕事をして家計を支えた。
勤めはじめるとなぜかイラストの仕事も来て、夜も土日も休みなく働いた。すでに40代半ばになっていた体にはきつい生活である。不整脈が出たりしたが、わたしはギラギラと燃えていた。
こんなに充実感を覚えたのは、生まれて初めてだったのだ。
◎そうか、わたしは頑張りたかったんだ
驚いたことに、20代の頃あんなに「仕事ができない」といわれていたわたしが、どこに行っても「できる人」として扱われたのである。
オットには申し訳ないが、わたしは結構しあわせだった。「人の役に立てている」と感じられることが、これほどに精神的安定をもたらすとは。
その後、オットは無事卒業してフリーのカメラマンになった。生活リズムが合わず険悪な関係だった実家から独立を果たし、10年近く夫婦でフリーランス生活を続けている。
アトピーの闘病生活や、ひよこマンガの本など何冊か出版もした。
収入は常に不安定で綱渡りだ。彼の方が多かった時期もあれば、わたしが生活を支えた時期もある。
家事は手のあいたほうがする。料理は今では彼の方がうまいかもしれない。
わたしは50歳を過ぎてから本格的にライター、文筆家として活動をはじめ、今では新聞社やテレビ局の媒体でコラムを書く毎日だ。
振り返ると昔々の結婚生活はラクだった。あんなにラクだったのにつらかったのはなぜだろうと考えた。
ラクなことと幸せは違う。大変なことと不幸も違うのだ。わたしはラクをしたかったわけじゃない、思いっきり頑張りたかったのだと気づいた。
孤独と絶望感で慟哭した35歳のわたしに、いってあげたい。
「泣かなくていいよ。きっとこの先、あなたの想像もしない未来が待っているから」