「自分」と「意見」
狩野みきさんの「自分の考えを『伝える力』の授業」を読んで、自分のモヤモヤの原点がわかりました。
「伝える」前に「意見を持つ」ことが苦手だったということ。
この本での気づきとともに、これからどうしていこうか、書いていこうと思います。
印象に残った気付き①
意見に「正しい」「間違い」などない
そんなの知ってたけど、あらためて言われるとグサッとくる。実際「間違ってる」とか「変なの」って思われたくなくて意見を言えない場面は、今までいくつもあったからね。
⇒これからどうしていこうか
個性を把握して、磨きをかけていく
ありのままでいるだけで、他の人とは違う、この言葉には共感し、救われたなあ。つまり、個性を把握し、それを自分でしっかり"個性"と認めることが出来れば、「正しい」「間違い」を気にせずに意見を言う事ができる。
個性みがいてこ!
印象に残った気付き②
「けんか」と「議論」は違う
これも知ってるよね。当たり前。一応「けんか」は感情スタートで、相手が間違っている、自分の言い分を是が非でも通したい、そんな感情がある事。一方「議論」は、自分の言い分が相手と違う場合「違う」とだけ捉えて終わり。間違ってるなんて思わないし、相手を打ち負かそうとも思わない。
「議論」だと思っていても、どこかしらで「自分の方が正しい」(とまでは行かなくとも)「納得させたい」という思いがあることが多かった、私は。相手を納得させること自体は議論の範疇なのかもしれないけど、「納得させたい」の裏には、”こっちの方が正しいですよ”が十分に込められている気がする。う~ん、反省。
⇒これからどうしていこうか
「議論」を”より考えを発展させる場”と捉える
意見の優劣を決めるのではなく、全ての意見を聞いた上で昇華させる、これが議論だけじゃなくて、会話の大前提でもある気がする、意識していこう。
考えた事
これは本当に個人的な考えなんだけど、ずっと思っていることがある。社会的な、倫理的な問題にも触れるから、あまり声を大にしては言えないけど。
色々な考えやそれに付随する社会問題について、確かにそれは私も目を向けるべきだと思うし、解決していくところに携わりたい、とも思う。
でも本来は、それぞれの意見のはず。だからこそ「議論」されるべき問題なのに、「けんか」になってしまっていることはないかな。そして多数派であればあるほど、マイノリティーの「意見」を打ち負かそうとする。マイノリティーは、ちょっと古臭かったり、めずらしい「意見」を持っている人のことを指すけど、その「意見」をきちんと聞いているのか。
マジョリティーの意見を発する人は、本当にそれが自分の「意見」なのか。そこまで大きく騒ぎ立てる問題なのか。などなど、モヤモヤが残る。
これ以上書くと、変な感じになりそうなので、この辺で!