カリスマは考えない兵隊を持つ
まだ新人保育士として働いていた時、園の中で「この人に任せたら全部大丈夫」というベテラン先生がいた。私はその先生とクラスを持つことになった。
その先生とは誰もうまくいかないという噂を聞いていたので、私は落胆した。まだ2年目の何もわからない私になんのサポートが出来るんだ、新体制になるのが怖いとすら思った。
案の定、怒られまくった。もちろん、私の間が悪かったり、判断が鈍かったりしたから。それは今となってわかることで、当時はその先生のことは尊敬はしつつも「機嫌が悪いんだ」とも思っていた。
なんでかというと無視されたりしていたから。今でも思い出すと胸が痛くなる。トイレで辛くて泣きたくないのに涙が出た日もあった。その人の悪口を書こうとしているわけではない。なぜ孤独なカリスマ先生になってしまったのかが気になった。
個人的には「人との関わりのスキルはセンスだ」と思っている。
一生懸命、人との関りについての勉強をしてもなかなか実践では出来ない。出来ていたとしても、そのスキルを出すために頑張った・我慢した分の感情やらの泥水がたまっていく。その捨て方にもスキルや場所を問われる。
話は戻って孤独なカリスマだ。カリスマ先生はとても努力家だった。月曜日には子どもが喜びそうな新しいアイディアを持ってきたり、配慮が必要な子への環境設定も怠らない人で、私はそういうところに尊敬していた。
一方で今までそのカリスマ先生とタッグを組んでいた人たちは自分を否定する人が多かった。無視されたりするからな…とも思うけど、それだけでなく判断の速さや子どもたちを引き付ける話し方だったりがやはり光っていて、自分と比べると落胆してしまうのだ。私もそう感じたことが多々ある。
やっぱりこの人に勝てないな、と思い始めるとこちらとしてはカリスマ先生の意見を聞きたいし、取り入れるべきだと考えてしまう。会議も自信がなくなって発言しなくなるし、ついていくことが最善だと考えるようになる。すると考えなくなるのだ。
考えない人と仕事をしたって、相手はもっと辛い。
孤独だっただろうカリスマ先生。私は昔から何にでも好奇心旺盛で「あれやりたい」「これやりたい」「やってみたい」という欲求の強い人間だったのでアイディアを出しまくった。思い付きで全く先のこと考えていないようなアイディアも口に出した。採用されないこともあったけど、どんどん怒られ、修正されていくうちに考え方がわかるようになった。
提案の仕方も上達した。自分が提案したことだったから会議でもねらいや反省を言えるようになった。今となって思うが私はカリスマ先生にあこがれていたのだと思う。だから自分のために頑張ったという結果でこうなった。
今までタッグを組んでいた人たちは「怒られないように」「失敗しないように」「喜ばれるように」と動いていたからしんどかったのかもしれない。私のこの自己中な性格(笑)がカリスマの兵隊にならずに済んでいた。
別の施設で働いたとき、自分が一番経験がある状況になったときに「カリスマにならないようにしよう」と思った。なれないくせに。
保護者にとってもカリスマの功罪がある
「 あの先生の代は良かった。 」
学校でもよくあるこの言葉。施設側からするとそんなこと言うなよ…と思うけど、チームプレーに見えないからゆえの言葉になっている。カリスマはその人のスキルだけでカリスマになるわけではない、周りの人もそうさせているのだ。要は保護者にとっても兵隊に見えているというわけです。これは不安の要素になりかねません。
カリスマを生まないための管理職の機能がなければなはないということになるでしょう。
人材育成に頭を抱えている施設も多い
給料が良いから仕事が続くわけでもない福祉業。仕事が辛いから、負担が大きいから、終わりのない仕事に無力感を抱くなどなど原因は一つではありません。
しかし、人間関係に悩んでいる人も多いのは実情としてあります。人間関係がうまくいかない原因に太字部分が関係あったり…。基本的に現場にいる人が経営をしていることが少ない施設、現場との意見の違いはたくさんあります。どの立場の人も悩みがあって、全体でそれを理解していかなければならない現状があります。
大きなチームとして働くために
子どもの話だけで終わりがちな会議、職員同士の悩みや問題点などの共有ができるような話し合いも必要です。時間の使い方を工夫して、話し合いの場面を設けたい…設けられない…今後も施設の戦いは続きます。