「読む」時に使う「一瞬」と、空間で起こっていることを捉える(筆致をはかる)機能、そして統合主

最後まで書かなくて、つぶれていった色々なもの
見えないところにいることになった、色々なもの

層があって、日の目を見るまで
作品の「かたまり」とは、少し違うと思うんだけど
(「公」って意味からも)

お客さんは見えない状態でダンスしていたら、って創作をしてるから、
今朝方、ノートを目を瞑って書いたんだ。
字 私の書くこの字は目に見える字 字が、はみ出さないように 感覚をとり書いた ら、かなりまとまっていて、普通に読めた。


「まとまり」ということが気になることになった。
はみ出さないように あちらこちらにいって、わからなくならないように
それは、「再び読まれる」ことを目指しているから。
だから、「まとまり」が必要なんだ。

目で見えるから このひらがな・カタカナの文字なんだ と思ったが、(形の流れ)
点字が目で見えないようの文字、ではなく、

目が見えなくても、筆致は感じるのだから、このひらがな・カタカナはありえるのだ。
(まとまり さえできたら、書くことすらできる。それをもう一度目を使わない本人が見るには…、読むには、)


ああ、「書く」ことと「読む」こと。
「読む」には一瞬を要するのか。
「書く」には流れ、筆致があって、   そこに「再び読まれる」ための段階に「まとまり」を入れる。(紙のこのへんに書いてあるよって)

「読む」時、読みながら文体を感じるように、再生されていくけれど、
一つ一つの文字へ、なぞるほどじゃない、「一瞬」を使って把握していくのだ。

これは、鉛筆で書いた文字でも、キーボードで書いた文字でも、
書いた時をなぞったり、打鍵して再生しようとして、同じだと気づく。



読む時に一瞬を使えるか?
ひらがなカタカナを書いた、目を使わない本人は。
ここで、「できないだろう」と、思うのだ。

もしも紙でなくて凹凸のある粘土版で、なぞれたら読めるのか?
少し特殊な読む経験だ。(目を使う人が鉛筆や打鍵で再生するに同じく)
なぞる時、自分が書く筆致は、流れに意志があるが、
自分にないものを読むためになぞる時、
止まったりしないか??

(何かわからない形をなぞる時、例えば「る」…で想像してたくさんの止まり、無理だ)


さらに、(目を使う人が鉛筆や打鍵で再生するに同じく)も、私は違うことを言っていたのだ。
元のテキストを「見ながら」と想定していたのだ…。


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●「一瞬」と統合機能

「読む」ために何かを「一瞬」として使う機能、
それと、違う事と思うけれど、
空間で起こっていることを、捉えていく(筆致をはかる)機能が、
気になっている。

そして、そこで、統合の「主(ぬし)」としてどの知覚を使っているのか。据えているのか。

目隠しをして観客として座っていると、
周りの立てる音や気配で作られていく世界が、
実際よりも広く作られていった。確か。ダンサーは二人しかいないのに、四人ほどいるように感じたり。

見ていない中で、弧を描く線があった、それはその書く時の筆致は………


弧を描く線の感じ、筆致の感じ、あれは視覚で捉えることと、触覚(?)で捉えるようなことの中に、共通のものがある。

「弧を描く」これは視覚だけのものでない 時空の感覚。

思えばダンスを見る時、その動きが自分に起こるようで面白く感じる時。
自分(ダンサー)に起こる現象を、一番は見る人の視覚に転化させて、見る人の体に戻していく。


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●やっぱり視覚優位に気づく
(話し声のたくさんする)演劇なら、(音の面白い)タップダンスなら、と考えていって、
「あのタップダンスの面白い礼装が見えないのは勿体無い」とか考える、
主を視覚で捉えているんだと気づく…。

これは一つ慣れかもしれない。稽古で視覚を用いず捉える世界はどんなものか。
視覚は一瞬の作用、動けない… しかし 多数の優位で作られた 社会構造 
洞窟の生物は光が届かず 目は退化している。

一瞬を掴む必要がどこにある?
コウモリは超音波の跳ね返りで空間をはかる
時間が流れていく こんな場所とわかる わかっていく

「一瞬」変わらなくても捉える 目
同じ音なら? 耳 エアコンの音が前景化

このどつぼは、あまり面白くならなさそうだから、這い上がりましょう。

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