
48「卑弥呼」ファン集まれ―!!全体ビュー3800up!!
「卑弥呼・阿遅須伎高日子根命神」、「臺興・天豊津媛命」説!! 卑弥呼ファン集まれ!! 「卑弥呼」はここだー!! 〇卑弥呼の父(埴岡寂諦) sakurako_saku・・・・、 左横〇をクリックすると全体表示となります。次に写真をクリックで全文表示。
「卑弥呼・阿遅須伎高日子根命神」、「臺興・天豊津媛命」説!!は、
安喜門院の「あわれにぞ つゆのすみかを たづねけれ きえにしあとに のこることのは!!」の詩を探索中に、偶然にも、徒然草「唐橋中将の子に・・」の散文から「卑弥呼・阿遅須伎高日子根命神」へと繋げたものですよねー。
私が、「卑弥呼」論説の中で、他の論説よりは少しはましと思うのは、すべての論説は「魏志倭人伝」のみからの論説であるが。
「卑弥呼・阿遅須伎高日子根命神」、「臺興・天豊津媛命」説!! は、
出だしは「播磨風土記」で「卑弥呼・阿遅須伎高日子根命神」、次に「日本書記」で「臺興・天豊津媛命」説としているところですよねー。そこを確立したうえで「魏志倭人伝」や「古事記」等へと入っているのですよねー。
私はその当時に生きていませんよねー。言ってることも本当なのかどうかも分かりません。だって見たことではないんだものー。
神積寺の「鬼追い」は、1302年(乾元元年)に後二条天皇の勅定により、疫病快癒祈祷のため、京都宮中の伝統行事と同じ修正会の最後の日(正月の1月14日)に合わせ祈願せよとの勅で、下僧のうちの14人程が追儺会を行ったのが始まりと伝えられています。がこの「山の神」と呼ばれる「鬼」は、元々は、この地「六所宮」(祭神、六御縣座主命神・阿遅須伎高日子根命神)すなわち、神積寺の守護神へと変遷する。
西暦247年にいる「魏志倭人伝」での記述の中での「卑弥呼」。それがほぼ 一千年後の1328年に作られた「山の神」の鬼面、嘘か誠かはわかりません。その鬼面のモデルには、何かがあったのでしょうかねー。それが証明できればいいのですが残念ながら何もありませんよねー。
前にも述べたように「卑弥呼」の説に、様々な地が候補となるのは、人間の本能からの 願望が、それを言わせているのですよねー。
ただ、そう読んでいくことが「正解に近い。」のではないかというだけの話ですよねー。
「バス・ストップ」 歌:平浩二 作詞:千家和也 作曲:葵 まさひこ
バスを待つ間に 涙を拭くわ
知ってる誰かに見られたら
あなたが傷つく
何をとり上げても 私が悪い
過ちつぐなう その前に
別れが来たのね
どうぞ口をひらかないで
甘い言葉 聞かせないで
独りで帰る道が とても辛いわ
バスを待つ間に 気持ちを変える
つないだこの手の 温もりを
忘れるためにも
どうぞ 顔をのぞかないで
後の事を 気にしないで
独りで開ける 部屋の鍵は重たい
バスを待つ間に 気持ちを変える
うるんだその目の 美しさ
忘れるためにも