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卑弥呼ファン集まれー(12)      「心豊かに生き生きと」

「心豊かに生き生きと」

    卑弥呼」が、なぜ「阿遅須伎高日子尼命神」と言えるのか。❓❓         「卑弥呼」・(少有見者)=「唐橋中将というひとの子に」(第62話第四十二段)・(二の舞の面)=神積寺・追儀式の「山の神の面」(阿遅須伎高日子尼命神)                                                                                                     「大塚古墳」後醍醐天皇御宇(1332年)「大山豪雨」で流失していなかった。

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 福崎町は、幸いにも柳田国男先生・吉識正夫先生と文化勲章者二名を輩出した土地である。第二五三代天台座主 山田恵諦大僧正は、福崎町文化センター開設二〇周年記念講演会「心豊かに生き生きと」の演題の中で、出た人は偉いが出した環境も偉いと述べられました。また世界の模範となる「人間生活の場」福崎町が出そうじゃないか。お願いしたいとも述べられています。                                                                               (H3.12.15 福崎町文化より )


 これだけの「情報化社会」、これまでの常識では通用しない。新しい発表ががいるのですよねー。   福崎町が出そうじゃないか。お願いしたい。このために発表している。

 この地の古くからの歴史を振り返って見ますと、この地は、神積寺の創建から今日まで「鬼追い(追儀式)・文殊さん・花祭り」等や高僧の指導による高い文化を継承してきた土地柄でもあります。
 江戸時代後期の農民の暴動(寛延一揆)(1748年)の勃発時には、大庄屋三木家の善政もさることながら、一方には名もない農民のリーダーがこの暴動に参加させなかった大きな功績も讃えられなければならないのです。
 この地の気質は、大きい物好き・高い物好き(本物)と強く、上品を念頭に、不用心かもしれませんが特に高い塀など設けずオープンな気質は他から見ても非常に美しく感じるものがあるのではないでしょうか。
 柳田国男先生は、「故郷七十年」の著書の中で「どうすれば親睦を永古にするかの方策がまだ立たず。結局は、疎遠と冷淡、路傍の人を多くするに終わる。」と著され、また「筆を起し私自身の足跡とその背景とを記録するならば、或いは同時代の人たちにも、またもっと若い世代の人たちにも、何か為めになるのではないかというのがかねてから私の宿志であった。幸いに時が熟したので、神戸新聞の要請をいれ、ここに「故郷七十年」を連載することにした。それは単なる郷愁や回顧の物語に終るものでないことをお約束しておきたい。」とも著されています。
 古くから日本社会の中で遠々と受け継がれてきた伝統文化の継承は、その地域に住む住人の人間性の向上・保持にその大きな源泉となっています。
 農村歌舞伎・神楽・獅子舞等の伝統芸能は、それを継承するのには、個々人の努力(蓄積・経験・称賛)等が人格の形成に大きく寄与しているのです。
 柳田国男先生は、明治の舶来欧米文化の行き過ぎた称賛と極端な日本文化の否定の概念に疑念を抱き、これへの反省を含め伝統文化の大切さを提唱するための多くの記録を残されています。
 人間の生活は、単に物質的な欲求の充足も大切なことですが、人間が「人間らしく生きる・精神的な充足が大きく求められる」ことを視点に、社会の動向があまりにも舶来称賛へと傾きかけたため、これへの警鐘としての民俗学(人間学)への提唱があるのです。
 昨今、都会で数多く発生している様々な事件は、柳田国男先生が提唱されている「ふるさと」地域社会での人間教育の欠如がその根源となり、現在の行き過ぎた個人主義・物質主義が、「他者を想いやる・共に生きる」と言った精神主義の文化(意識)の欠如(教育の貧困)がその背景となっていると考えても不可思議なことではないのです。
 社会は、個人・家庭・地域・地方自治体・国家へと繋がっており、個々の人間の精神の崩壊が地域のコミュニティーの崩壊への繋がりとなり、これらの育成・保護施策の推進がいま求められている大きな課題となってくるのではないでしょうか。

             「北野と妙徳寺」の歴史(新考)P10より

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「卑弥呼」が、なぜ「阿遅須伎高日子尼命神」と言えるのか。❓❓

「卑弥呼」・(少有見者)=「唐橋中将というひとの子に」(第62話第四十二段)・(二の舞の面)=神積寺・追儀式の「山の神の面」(阿遅須伎高日子尼命神)

「大塚古墳」後醍醐天皇御宇(1332年)「大山豪雨」流失していなかった。

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