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45「卑弥呼」to「日本書記」to「古事記」!!全体ビュー3500up!!
「卑弥呼・阿遅須伎高日子根命神」、「臺興・天豊津媛命」説!! 卑弥呼ファン集まれ!! 「卑弥呼」はここだー!! 〇卑弥呼の父(埴岡寂諦) sakurako_saku・・・・、 左横〇をクリックすると全体表示となります。次に写真をクリックで全文表示。
北野神楽の起源は ?
北野村組頭佐七郎から、過去に熱病が流行したとき氏神様に飾磨陣栗山町神子の神楽を廻して願立てをしたところ村人一同安心できたので、天神さんの千年祭(元冶2年4月17・18日)に栗山神楽を奉納して実施したいと、姫路藩宗門奉行所へ願出・聞き済下され侯、同時に念のために榊原太郎左衛門様御役所に届け出をし聞き済下された。(1865年)
千年祭は、辻川村・田尻村・吉田村・大門村・加冶谷村・井口村の庄屋や則近村若者中江(4月16日)等に参詣の案内を出し盛況に執り行われたとの記録がある。(明治初期、廃仏毀釈により栗山神楽廃止?)
このことから、元冶2年4月(江戸時代後期)に許可を受けた経緯から、明治の初期に伊勢太神楽の木村社中(太夫)の師範に、当村の長谷川亀太郎さんらが、屋島・恵拾い・扇の舞・剣の舞・洞返り・花がかり等の舞や笛を教わり、獅子道具一式が整えられて「北野神楽」が創設された。
以後、昭和15年頃まで天神さんの秋祭りには、宵宮・昼宮に日が替わる時間まで、また夏の日照りの干ばつで水不足に困ったときには、高橋の「さもとが淵」で北野神楽が舞わされ続けてきた。(生活の息災を願掛けした。)
以後、敗戦の困窮から中断されていたものを、平成21年正月から、古老である田尻村の多田拙二氏(旧姓埴岡)に聞き取り調査を始め、夢前町万願寺、住職関恵章先生や甘地獅子舞保存会、楠田蔵人先生の指導のもと2年間をかけて練習し、平成22年10月9・10日の北野天満神社「秋祭り」に「北野神楽を70年ぶりに再興」し奉納した。
また、平成23年8月6日福崎町創立55周年記念事業「柳田国男55年祭夕食交流会」に出演し好評を博した。
天満天神千年祭に神楽奉納のこと 長谷川 謙二
これは古い家を取りこわした時、三階の物置の箱から出たいろいろな文書の中から取り出したもので、表紙には
元治二丑年 北野村
天神社千年記諸雑用控帳
四月十七ヨリ八日 一統中と記してあります。
元治二年と言えば約百二十五年以前のことで徳川幕府が将に倒れ明治の新政府にならんとした時代で、元治・慶應・明治・昭和・平成と年号の移り変りし今日当時のことは想像も出来ないが、天神さんの千年祭を部落民と相談して四月十七日十八日の二日間に渡り催し、飾磨の栗山町より神楽を呼んで氏神に奉納、近村数ケ部落を招待、青年や村人多数の御参詣を願い、部落の家を宿舎としての開放、酒や食事を出して賑やかな祭礼を行った記録で、この行事を行うに際して姫路藩の宗門奉行所に願出許可を得て且つ宗門奉行所の榊原太郎左衛門と言う役人に、庄屋、組頭、五人組連署の上届出ている。
当日の祭礼に必要な物品の購入の経費の明細及寄附金等収支の明細が記入してあり、珍らしいと思うので原文の侭記入して参考にした。尚文中不明な点が多いので御解りの方の御教示を御願いしたい。
参考原文のまま
買物覚え
一、銀四拾三匆 御見寿代
一、〃三拾八匆四分 神院八寸壱面
一、〃拾九匆弐分 神院右下大
一、〃弐拾五匆六分 金平 壱本
一、〃拾八匆 釘隠 四ツ
一、〃六拾目 さま二本 岩戸源左衛門
一、〃百五拾目 木綿四反
一、〃七拾目 染賃
一、〃四拾五匆 神子溝
一、〃三拾壱匆五分 上敷三枚
一、〃九拾三匆七分 酒札他村若物へ
一、〃拾七勿弐分 半紙二束
一、〃拾七勿七分 ろうそく三百七拾匁
一、〃弐拾目五分二厘 もち米白、六升
一、〃拾壱匆一分四厘 諸色
一、〃百参匆九分一厘 白米三斗三升五合
一、〃三拾目 座敷料
一、〃百七拾五匆八分 人形代喜兵衛外
一、〃弐匆五分二厘 三方代
一、〃四百八匆 酒八斗五升
一、〃七拾六匆九分六厘 通〆
一、その他拾五件
合計支出合計壱貫五百六拾弐勿五分四厘
収入之部
一、銀弐百五拾三匆 村方一統寄附
一、銀三百四拾六匆四分七厘 若者神楽、近隣花代隣村庄屋ヨリ献金
一、銀拾文目 辻川庄屋太二郎
一、〃拾文目 田尻庄屋弥三太夫
一、〃拾文目 吉田庄屋恵右ヱ門
一、〃拾文目 大門庄屋留治郎
一、銀拾文目 加治谷庄屋牧十郎
一、〃拾文目 井ノロ庄屋太右ヱ門
一、金壱朱 辻川 金兵衛
外二有志九名ョリ弐拾六勿
一、銀四拾弐匆壱厘 さい銭
一、〃弐拾目五分八厘 一戸見世地代
一、〃五拾目四分五厘 売 物
合計 銀八百九匆弐分壱厘
差引不足七百五拾参匆五分三厘
外二玄米四斗四升 村方一統ヨリ預り米
借用 此分算用二不入
右天神社千年祭村方一統相談の上四月十七日ヨリ十八日迄二日之間、相勤村方一統参詣仕り候、則近村若者中江は十六日案内仕り候
火急之儀二付近村若者ヨリ竹馬壱棹俵三俵卜持参仕り候、
案内ノ節壱村二付酒札三枚ヅツ遣申候、十七日村々若者参詣ノ節壱村若者二酒二三升位ヅツ下宿ニテ出申候、村々若者ヨリ献金之儀ハ奥ニ目録書可有事
北野村一統
世話人 (連名省略)
(次二、案内奉行所への願出書)
奉書上御願出之事
辻川組 北野村
一、当村方当春方ヨリ熱病流行仕候二付氏神へ立願仕候処過去仕村方一統安心仕為願開飾磨陣栗山町神子相願當月十七日ヨリ十八日迄二月ノ間神楽上ケ村方一統参詣仕度奉願上候、
右願之通御聞済二御下置候ハバ村方一統有難奉有候次上
元治二丑年四月
辻川組 北野村
組頭 佐七郎
庄屋 善治
奥書
大庄屋 三木承太郎
後 見 難波清太夫
宗門御奉行所
(別紙届ケ出 原文同)
右之通宗門御奉行所二奉願上候御聞済ミ下候二付為念此段御届ケ奉申上候 以上
元治二丑年四月
辻川組 北野村
組頭 佐七郎
庄屋 善治
奥書 大庄屋 三木承太郎
後 見 難波清太夫
榊原太郎左衛門様 御 役 所
北野神楽70年ぶりに再興!!
北野の大蛇伝説 昔むかし、まだ岩尾神社がない頃に、そのあたりに「いお」という名の、それは綺麗なお姫様が住んでおられました。
村人が、夏の日照りで困って雨を降らして欲しいとお姫様にお願いをすると必ず雨を降らしてくださいました。
お姫様は、村人に決して私の寝ているところを覗いてはなりませぬといわれていましたが、あまりにも大きないびきに、ある村人がそーっと覗いて見てみると、そこには大きな大蛇が寝ていました。
見られたことに気づいた大蛇は、おおあわてで広岡を通り七種方へ逃げこんでいったそうです。
それから数年後、また日照りで村人は困り、大蛇をそこいらじゅうを探していますと、七種川で魚とりをしていた「さもと」(人名)さんの網に入り、「さもと」さんは川へひきづりこまれそうになったので、持っていた短刀でその網の紐(投網)を切り、かろうじて助かったということを伝え聞いてきました。
そこで村人らは、大蛇さまはきっとそこに住んでいるに違いないと、その「さもと」さんが漁をしていた岩場に行って、雨を降らして欲しいとお供えをしお願いをすると、必ず雨を降ってきたと言われています。
北野区の村人は、日照りの日々が続き旱魃で困ってくると、お姫様に雨を降らしてくれるよう、いつのころからか神楽を廻(奉納)して雨乞いをすると、必ず雨が降ってきたと語り伝えられています。
(その頃 新池はなく、昭和の初期まで続けられていたと言うことです。)
その「さもと」さんが魚とりをしていたところを、今も「さもと」が淵といい、現在も高橋の鉄橋下の少し下の茂みのところが、さもと(侍の名)が淵として現存しています。