見出し画像

30「卑弥呼」to「柳田國男翁」to「邪馬台国」!!全体ビュー2500up!! みなさん ありがとーうー。!!

全体ビュー2500up!! みなさん ありがとーうー。!!                           私が、「卑弥呼」「阿遅須伎高日子根命神」「臺興」「天豊津媛命」説にたどりつくまでには、20年余の歳月がかかっているのです。有馬法師で10年、「あわれにぞ つゆのゆかりを たづねける消えにしあとに 残ることのは」!!までに7~8年、唐橋中将の子に、「山の神」偶然にも「卑弥呼」到着となるですよねー。
    地元の伝承から「卑弥呼」へ到達!! 「北野元宮」「山の神」正始八年(247)卑弥呼以って死す。へ繋ぐまでー!! 「天神伝説」、 菅原道真は宇多天皇に重用されました。当時は藤原家に強力な人材がいなかったこともあり、宇多天皇は久しぶりに天皇親政を行ってその片腕として博識の道真をよく使ったのです。          ( 写真 北野天満宮 )

画像2
 宇多天皇は更に藤原家に政治が牛耳られないようにするためには自分が引退して息子を天皇に立て院として天下に指示した方がよいと考え、寛平9年(897)7月3日、醍醐天皇に譲位します。所がこれが完全に裏目に出てしまいました。
 醍醐天皇は何かと口うるさい道真を嫌い、自分と馬の合う藤原時平に傾斜して行きました。そしてついに昌泰4年(901)正月25日、醍醐天皇は道真から右大臣の地位を召し上げ、九州の太宰府へ左遷する詔を出すのです。知らせを聞いて驚いた宇多上皇が宮中に駆けつけますが、門の所で待機していた蔵人頭・藤原菅根が頑として上皇を中にいれず、宇多天皇は裸足のまま呆然と門の外に夜まで立ちつくしていたといいます。
 道真は太宰府で半ば軟禁状態のまま失意の日々を送り、延喜3年(903)2月25日この世を去りました。この時道真は遺言をし、自分の遺体を車にのせて牛に引かせ、牛が立ち止まった所に自分を葬ってくれ、と言い残しました。これは味酒安行によって実行され、彼は2年後その墓の所に小さな祠廟を建て、稀代の宰相の霊をなぐさめました。

 

画像2
なお道真が都を去る時自宅の梅の木を眺めてこのような歌を読んでいます。
 東風(こち)吹かば 思いおこせよ 梅の花 主無しとて 春な忘れそ
 この梅の木は道真が亡くなると主を慕って九州まで飛んできて、道真の墓の側に移ったといい、これを「飛梅」といいます。その何世代か後の梅の木が今もその地太宰府天満宮に残っています。
 さて道真が追われた後、都では異変が相次ぎます。まず道真追放の主役を演じた藤原時平が延喜9年4月に39歳の若さで死去、4年後には右大臣源光も亡くなります。また宇多上皇を皇居に入れなかった藤原菅根も変死。
 更に延喜23年3月には時平の妹穏子と醍醐天皇の間に生まれた皇太子保明親王が21歳で死去、追い討ちを掛けるように2年後にはその保明親王と時平の娘との間に生まれた幼い新皇太子慶頼王まで亡くなってしまいます。
これを世の人々は道真公が自分を追いやった時平公の縁者に祟っているのだと噂します。醍醐天皇も恐くなって道真を右大臣に戻す詔を出したりしますが、怪異は収まる気配がありません。
 そしてとうとう延長8年(930)の6月26日、内裏に落雷があって大納言藤原清貫と右中弁平希世をはじめ何人もの殿上人と女官が雷に撃たれて死亡するという事件が起きます。醍醐天皇はショックで病に倒れ、3ヶ月後この世を去ってしまいました。
 世の人は道真公は雷神になられたのであろうと口々にいいました。
 さてこのような騒ぎの中道真はどんどん神格化されていきます。
 味酒安行が祀った小さな祠は延喜19年藤原仲平の命により大きな社殿に作り変えられました。そしてやがて都でも道真公を祀ろうとする動きが出て来ます。
 天慶5年(942)京都の多治比文子という人が「右近馬場に祠を建てよ」という道真公の託宣を受けますが、庶民にはどうにもならないため、仕方なく自分の家のそばに小さな祠を建ててお祀りします。その5年後今度は近江国比良宮の禰宜の神良種(みわ・よしたね)の子供の太郎丸にやはり同様の託宣があり、その問題の右近馬場に一夜にして松が数千本生えるという奇跡が起きた為、良種は文子とともに北野朝日寺の最珍に協力を求め神殿を建立しました。
ここで永延元年、一条天皇が勅命で道真公を祭るお祭りを行い、これを北野祭と称して、その後この神社は北野天満宮と呼ばれるようになったのです。一条天皇自身寛弘4年(1004)に行幸しています。永延元年(987年)「北野天満宮天神」称を贈る。一条天皇勅願寺に「北野天満宮」ある。

画像3

柳田国男「人を神に祀る風習」                    柳田国男は人が神として祀られる第一の条件は、その人がこの世に恨みを抱いて死んで行った場合であると言っていますが、そのまさに典型がここにあります。(柳田国男「人を神に祀る風習」)柳田国男は『人を神に祀る風習』において御霊信仰の様々な事例を紹介している。御霊とは、霊のうちでも特に怨みをもった霊魂、すなわち祟りをあらわす怨霊のことである。生前に怨みを残して死亡した人の霊魂が様々な災厄をもたらすと信じられ、その霊を鎮めるために、神として祀り上げる それを鎮撫するために建てられた神社である。                              菅公は、世間で語られているほどではなかった。讃岐に赴任する際に懇意になった明石駅の駅長・橘季祐(たちばなのゆえすけ)に再会したが、落魄した道真を見た駅長は道真にかける言葉もなかった。道真はこのときの思いを「駅長驚くなかれ 時の変改することを 一栄一楽 是れ春秋」の詩を与えて慰め返したという。      ( ここが見えなキャー。
「飛梅伝説」
 九州太宰府から、平成25年この「飛梅」が、この地「北野天満宮」送られ、毎年拝殿前で「綺麗な香りを発しながら咲かせています。」

菅公の詩
 ふりかえり かえりゆくかも わかれしに 千種の森の みゆるかぎりは
 この詩は、菅原道真公が延喜二年二月(九〇三年)に筑紫へ下向されるとき、子好寛を神前の郷 中務(役所)の家に御影を残され詠まれた。
 淳茂公(あつしげこう・ ?~九二六年・延長4年)は、山崎までの同行。(播磨・配流) 淳茂公は、菅公お手植えの「曽根の松」で有名な「曽根天満宮」も建てられたとの記述もあることから、もともとの北野天満宮もまたその時期に建てられたと推測できる。(配流は5年・延喜8年、その頃)
 祭神は菅原道真、神社内脇には右大臣○○と左大臣「白太夫」の神像もあり、右大臣は長男高視公となるのでしょう。?
 北野天満宮「千年祭」には、元冶二年 (一八六五年) 四月一七・一八日に神楽舞が、奉納された記録もある。
 また絵馬は、「菅原伝授手習鑑」「賤ヶ岳の七本槍」「義経の弓流し」「敦盛最期」が明治二七年九月吉日に奉納せれたとの記述がありこれは期日的に旧天神社か六所社のものを運んだのであり、またこの時期は明治天皇の憲法発布を祝賀したものであろう。
「なぜ牛」 うし年生まれの菅原道真公(天神様)が亡くなった時、ご遺体を運ぶ車を引いていた牛が悲しみのためか途中で動かなくなりました。やむなく道真公は、その地で埋葬されました。その場所が今の福岡県の太宰府天満宮です。
 祀られている「牛さん」の頭をなでると賢くなり、牛さんをなでた手で体の悪いところをなでると健康になるという言い伝えがあり、いつも人の手で磨かれているので、牛はピカピカに輝いています。
 現在の北野天満宮は、もともと二丁ほど山頂部あったものを (明治三九年)一二月(一九〇六年)の内務省「神社合祀令」一村一社を原則の統廃合令により、明治四四年に天満宮・六所社・祇園社(西田原字道垣内六百九拾六番地)の合祀のため現在地に移築したもの。
 そもそも六所社(西田原字広岡八百拾参番の壱)は、北野元宮―文殊堂の北―天神山南麓―脇舎。祭神は六御県座神(むつのみあがたにますかみ)元の社殿(三代目)は、弘化二年(一八四五)に天神山南東斜面に建てられたらしく、現在でもその下の道路を六所道・水路を六所前溝と呼び管理している。                                                                                                                     六所社は、祭神(六御県座神・阿遅須伎高日子尼命神)=「卑弥呼」となる。

画像4

「学問の道」                                      天神山に「学門の道」が整備され、柳田國男先生の生家ー記念館ー歴史民俗資料館ー鈴ヶ森神社―万葉の森ー散策路(柳田國男五兄弟の肖像)ー北野天満宮。へと整備され、多くの方々の「学問の散策路」として利用されている。

この「天神伝説」大きな創作話、人気が出るのでしょうねー。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?