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29「邪馬台国」to「柳田國男翁」!!    天之日矛 後裔三宅氏

〇卑弥呼の父(埴岡寂諦) sakurako_saku・・・・、          左横〇をクリックすると全体表示となります。次に写真をクリックで全文表示。   卑弥呼ファン集まれ!!                                                                                       正始八年(247)卑弥呼以って死す。から、治承3年(1179年)11月備前児島へ土着まで、藤原京(699~701)で出土した木簡「表に神前粒川辺里、裏に三宅人荒人俵」記述までで、初めて天之日矛後裔三宅氏?、と分かったのですよねー。991年「神積寺」創建まではほとんど何の記録もないのですよねー。

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この地には、卑弥呼が住んだと語っている「城郭」の真横に、「広畑古墳」「神前古墳」と大きな古墳が2基も存在していますよねー。この古墳からは、「馬具」の装飾品の一部が出土しており、播磨国の土着勢力であった天之日矛後裔三宅氏? 古墳としか言えないのですよねー。なぜなら、「魏志倭人伝」では日本に「馬」はいなかったと記されているから「卑弥呼」古墳とはならなのですよねー。                               三宅氏は日本の氏族のひとつ。三宅人荒人俵(みやけのひとあらひと)三宅人夜代に代表される播磨城牟礼山城主だった百済人の末裔の系統。
『播磨国風土記』の神前郡多駝里糠岡条には、糠岡(現在の姫路市船津町糠塚)の地名の由来として、伊和大神(いわのおおかみ)と天日槍命(あめのひぼこ)が戦ったとき、伊和大神の軍が稲をひいたときに糠が積もってできた丘であり、「墓」(つか)とも「城牟礼山」(きむれやま)ともいった、としている。「キ」とは城の意味を表す朝鮮(百済)の古語であり、城牟礼山の「ムレ」も山を意味する朝鮮語なので、「キムレ」とは「城山」と解することができる。また神前郡川辺里に百済人が古代山城である城牟礼山を築いたとある。その百済人の子孫を三宅人夜代等(みやけひとよしろ)たちであると伝えている。
    藤原京跡(699=701)から出土した木簡に、表に神前粒川辺里、裏に三宅人荒人俵(みやけのひとあらひと)との記述がある。「屯家」「御宅」「三宅」「三家」とも表記される。「ヤマト政権の直轄地経営の倉庫などを表した語である。それと直接経営の土地も含めて屯倉と呼ぶようになった。」(670-700)大智度論の奥書(天平六年<七三四>十一月書写)には、神崎郡の知識名、写経事業のスポンサーとして「佐伯直等美女」(巻三六)や「六人部奈伎佐」(巻三七)の名が記載されている
佐伯 王権に仕え、宮廷警備等の任につくようになった後、外敵からの攻撃を「遮(さへ)ぎる者」という意味で「さへき」と呼ばれるようになったとの説がある。

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 田原の名は、一番古い史料は、保延七年(1141)6月23日の鳥羽院庁下文です。田原は公卿・九条家領荘園であり「九条家文書」(宮内庁書陵部所蔵)に関係史料が多数見られます。
 中でもこれによれば、田原の地は、伊和豊忠の子孫行覚(播磨一之宮・伊和神社を氏神とする一族)が先祖から受け継いだ所領ですが、大治三年(1128)二月に鳥羽院庁 播磨国在庁官に川述南条 田原荘が源師行( ?  -1172)に譲られました。                   源師行は田原の地を鳥羽院、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))に寄進し、現地の支配は師行自身が行ないました。これが荘園としての田原荘の始まりです。

 治承3年(1179年)11月、清盛のクーデターにより後白河法皇の院政は停止される。また、このクーデターによって摂政基房は解任され、代わりに清盛の娘婿の近衛基通が摂政に就任する。また、院近臣の多くが解官された。翌治承4年(1180年)2月、高倉天皇は言仁親王(安徳天皇)に譲位、高倉院政が開始される。3月、高倉上皇は清盛の強い要請により厳島神社への参詣を計画するが、先例を無視するものとして畿内の寺社勢力は猛然と反発する。この政変で平氏の知行国は17か国から32か国に急増する。

 播磨国の土着勢力であった天之日矛後裔三宅氏が、治承・寿永の乱の際に平氏に圧迫されて備前児島へ土着したという。

 この説は、醍醐天皇、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))皇子・源允明(みなもと の すけあきら)の子福慶が備前児島に居住し、その十一代目[1]、又は宇多天皇皇子・敦慶親王が備前児島に配流されたのち、その子福慶から十四代目[2]・和田備後守範長の娘、信夫(しのぶ)が頼宴へ嫁いで出生したのが高徳であり、これを以って和田範長は高徳の外祖父とすることができる。高徳が7歳の時、範長の養嗣子になったとされ、和田範長は養父となる。

詩吟  兒島高徳   <斎藤監物>

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兒島高徳        <斎藤監物>
踏み破る千山 萬岳の煙
鸞輿今日 何れの邊にか到る
單蓑直ちに入る 虎狼の窟
一匕深く探る 鮫鰐の淵
報國の丹心 獨力を嗟き
回天の事業 空拳を奈んせん
數行の紅涙 兩行の字
櫻花に附與して 九天に奏す

 「天莫空勾践 時非無范蠡」                                                                               桜の幹に「天莫空勾践 時非無范蠡」〔春秋時代、天は越王の勾践が呉の王に無残に敗れたことを無駄にしてはいけない、いつかきっと、范蠡のような忠義な家臣が出現いたします〕の二句を書き、忠誠を奏上した図を見て詠じたものである。

詩吟   志士平野國臣     <松口月城>

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志士平野國臣  <松口月城>
維新の人物 孰か倫を超ゆる
平野次郎 名は國臣
夙に勤王を唱えて 肝膽を碎き
潛かに倒幕を圖りて 幾艱辛
獄中紙を撚りて 孤憤を敍べ
月下兒に訣れて 親たらざるを悲しむ
義擧一朝 事敗ると雖も
英魂凛凛 永く神を傳う  

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児島高徳伝説                             「高徳が、初陣のとき落馬して気を失い。配下に助けられた。」この時「鎧・兜・刀等を三獅子山の麓に埋め、百姓の衣装に着替えて落ち延びた。」この地「田原荘」では語り継がれているのですよねー。

要は、正始八年(247)、卑弥呼以って死す。を最後にその頃「事代主」の時代には天之日矛勢に追われ、大和へと移住したのでしょうかねー。その時点で「邑日野」での「邪馬台国」という行政府は終わった。ゆえに「邪馬台国」はどこか分からないー。と言うことになっているのですよねー。住七八十年。



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