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46「卑弥呼」to「日本書記」to「古事記」!!全体ビュー3600up!!

    「卑弥呼・阿遅須伎高日子根命神」、「臺興・天豊津媛命」説!!       卑弥呼ファン集まれ!! 「卑弥呼」はここだー!!           〇卑弥呼の父(埴岡寂諦) sakurako_saku・・・・、          左横〇をクリックすると全体表示となります。次に写真をクリックで全文表示。

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 北野では、現在は天満社・六所社として薬師山上にあるのであるが、4代目として改修したとの碑文がある。
古宮は、集落の裏手で、「宮田」と言って圃場整備前まで、田の中に「神社の礎石」が存在していた田があり、そこが最初の「宮」である。(福崎町西田原588番地)2番目は、文殊堂北。
次に、柳田国男先生も記されている「西ノ池」東に「宮の下」と呼ばれている田があり、その田は宮の所有と言われている。
3番目は、どうも江戸後期の時代に多くの者が「掛上り」と言って開発された「前村」が誕生した等の係わりからか、山の南面に移転している。(本地垂迹説による岩尾神社の出現)元の社殿は弘化2年(1845)に建てられた。と記されている。 神崎郡史 P 446
神社名は「六所社」その前を六所道、その下の溝を「六所前溝」「六所下溝」と呼び、現在でもその溝は「六所前溝」「六所下溝」と呼ばれ管理されている。     (1906年 明治39年6月 一村一社令)
燈 籠      寶暦二年○○癸酉三月吉日 (1753年) 願主 氏子中
手洗い石     寛政六年(1794年)
拝殿石 段      明治拾有八年拾月吉日

 天満神社の移転合祀について           長谷川 謙 二

 私は小さい時母につれられて天神さんに御参りしたことが多い。当時通称六所前と言う所から山に登っていたが、そこに僅かに社殿が残っていた。
 その後何時のころかこれが取りこわされ、今は雑木林になっている。ここが今は天満神社に合祀されている六所大神社の御社があった処である。
 古文書によると北野村は江戸時代辻川組北野村と言って戸数五十戸に満たない小部落で、天神山の北側から東に、そして生野街道が開けるに従い現在の掛け上りまで、家並みが広がって来たらしい。
 現に私の家も明治八年ごろまで西池の北の台地にあったが、祖々父の時に引っ越して来たと言うことである。
 当時天神山の北麓に天満神社と愛宕神社が、南の山麓には六所神社が御祭りしてあり、三社がニケ所に分かれており、崇敬人(氏子)も部落の北と南に互いに入り交じり、祭典等もまちまちで大変不便で、部落の崇敬人間でも融和を欠いていたらしい。そこで数次に渡り協議相談の結果三社の合祀を決定、現在地に土地を求め、建築の設計、費用の明細、財源の検出、収支の明細等細かな書類を作成して、県知事に申請をしている.
 当時の申請書の控書及び下書等を見ると次の様に記載されている。
 明治四十一年五月田原村役場を経由、神崎郡役所に申請した書類によると、次の様になっている。


神社合併移転並びに合祀願
 神崎郡田原村の内西田原字道垣内六百九拾六番地
無格社 天満神社
 同 郡同村の内字北広岡八百拾参春の壱
無格社 六所大神社
 同 郡同村の内同村字道垣内六百九拾六番
無格社 愛宕神社
 右天満神社六所大神社愛宕神社は何レモ由緒不詳且ツ建物狭小ニシテ将来独立維持ノ方法相立難ク候二付今般双方協議ノ上同村北広岡八百拾参番ノ三民有地二別紙設計書ノ通り社殿ヲ建築社名ヲ天満神社ト称シ天満神社六所大神社ヲ合祀愛宕神社ヲ合境内地ニ移転合併ノ上設備ヲ完全ニシ崇敬ノ實相挙ゲル様致度候間御許可被成下度関係者連署此奉願上候也以上
 明治四十一年九月 日
   神崎郡田原村内西田原
無格社 六所大神社     社掌 欠員
愛宕神社
崇敬人惣代
               大塚政吉
               佐野彦吉
               近藤定吉
無格社 天満神社   社掌 
                田郷寛二
崇敬人惣代
               長谷川 十太郎
               皐   勇
               埴 岡 角大郎
兵庫県知事
    服 部 一 三  殿

添付書類
一、神社合併移転並二合祀ヲ要スル理由本村ノ内北野村ハ三神社アリテ天満神社卜愛宕神社ハ部落ノ北方二位し六所大神社ハ之二反シテ南方二在り信徒ノ如キモ南北二散在シアルヲ次二何レカ一方ノ神社二合併スルトキハ自然参詣ノ不便ヲ感ジ従ツテ崇敬人ノ感情ヲ害シ村内ノ融和ヲ欠クノ虞レアルヲ以テ更二本村字北広岡八百拾参番ノ三二民有地ヲ買入レ天満神社六所大神社愛宕神社ヲ慈二移転スルトキハ南北ノ両組ノ中央ニシテ土地最モ高燥風致二富ミタルヲ以テ神社ノ尊厳ヲ維持シ且ツ参拝二祭典二諸般ノ管理上大二便利ヲ得ルヲ以テ移転合併ヲ要スルモノナリ、尚又神社境内地反別ノ大ナルハ風致ヲ造成スト、且ツ建物間相当ノ間隔ヲ設ケテ参拝祭典二便ナラシムルノミナラズ地勢上分裂スルトキハ風致ヲ損スル虞レアリ且ツ今後設備ヲ完備スル為別記ノ面積ヲ要スルモノナリ、
神社社掌名 及
 崇敬人惣代 氏名(省略ス)
二、幣殿
 六所大神社拝殿ヲ其侭移転ス
合併跡処分法
一、社殿 壱棟 天満神社
一、拝殿 壱棟 〃
一、社殿 壱棟 六所大神社
一、拝殿 壱棟 〃 〃
一、社殿 壱棟 愛宕神社
 右天満神社々殿ハ移転地二建設シ六所大神社社殿 腐朽セルヲ以テ取壊シノ上境内地二於テ焼却シ拝殿ハ移転地二建設、愛宕神社 其侭天満神社境内地二移転スルモノトス、
各崇敬人惣代
      氏名       省略
一、豫定明細書
 兵庫県神崎郡田原村ノ内西田原字北広岡八百拾参番ノ三
無格社 天満神社
一、祭神  菅原道眞、火迦具大神
六所縣座神
一、由緒  田原村ノ内西田原村字道垣内六百九拾六番
天満神社
仝村字仝上愛宕神社
仝村字北広岡八百拾参ノ壱
六所大神社ヲ明治四十一年 月
同日合併移転ス
一、社殿間数       桁行  三尺五寸
           梁行  三尺五寸
一、上覆関数       桁行  三間一尺
            梁行  二間三尺
一、幣殿間数       桁行   二間
            梁行   二間
一、燈明殿間数      桁行   二間
             梁行    八尺
一、拝殿間数      桁行   三間
            梁行   二間二尺
一、境内坪数      壱阡百拾九坪
一、崇敬人員
一、縣庁迄距離     弐拾里弐丁
一、境内神社   弐社内
一、祭神 不詳
一、社殿間数     桁行 二尺      梁行 一尺六寸
一、由緒
   明治四十一年 月 日天満神社移転二付仝境内へ移転
   其次前不詳
愛宕神社
一、祭神      火迦具土神
一、社殿間数    桁行弐尺   梁行壱尺六寸
一、由緒
   明治四十一年 月 日天満神社移転二付仝境内へ移転其レ以前不詳
一、境内所有地
   山林反別 壱反九畝拾八歩
   實測反別 弐反七畝壱歩
 右は従来国有林之所明治三十九年七月六日境内所有地トシテ買受ケ同年十二月甘六日明細帳記入許可
           右之通り候也
                      崇敬人 惣代 省 略
一、移転改築二付収入予算
一、金弐阡弐百弐円拾弐銭 収入高
内 訳
一、金弐百拾四円弐拾四銭 境内立木伐採額
一、金四百弐拾参円九拾五銭
地均シ手伝人夫賃寄附
一、金壱百九拾五円 崇敬人寄附
(既二寄附済二付移転先地処購入済)
一、金壱阡参百六拾八円九拾参銭
崇敬人 寄附
一、金弐阡弐百弐円拾弐銭 支出高
内 訳
一、金壱昨九百八拾九円拾弐銭 設計書通
一、金壱百九拾伍円 地処購入費

差引残高ナシ
右之通り候也
崇敬人惣代 氏名 省略
其の他、設計書 明細 及 図面等

この時代は、廃仏毀釈によって「祇園社」名は使用禁止のため、この申請に際しては「愛宕社」となっている。

「祇園さん」  「奉納相撲」                                                                                    私の子供の頃には、「祇園さんの夏祭り」が、毎年7月25日に行われていましたよねー。
    そして子供たちは、「奉納相撲」をやっていたのですよねー。村中の家を1軒々訪れ、「祇園さんの賽銭をお願いします。」と言って、お賽銭を徴収し「奉納相撲」を取った者に、10円が何回も何回も配られたことを覚えています。宮守さんもなくなり、何時の頃からかやらなくなってしまったのかなー。(私は体も小さくて、あまり勝てなかったので大嫌いだったよー。)

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北野屋台のこと

 北野屋台は、明治22年に加西市畑東組によって製作され誕生しました。
経緯は、明治22年2月11日、大日本帝国憲法が発布、1890年(明治23年)11月29日に施行され、新生日本に大衆は沸き立ち、至る所で屋台の新調や奉祝門や、提灯行列等も催されたといわれ、その時期に誕生しました。
 また大正9年10月14・15日には、辻川地区鈴が森神社(民俗学者 柳田國男)の棟上げ式があり、近隣の集落は、その上棟式に参加のため屋台を調達(大門屋台2500円・北野屋台1500円・中島屋台等、新町も参加)、北野区も大正7年、加西本町から譲り受け奉納に参加し、それ以来100有余年が経過しようとしています。
 北野の屋台は、当初、白黒の屋根絞りの屋台でしたが、時代の変化・地域おこしの流れの中で、昭和59年から大修理にかかり、いまの紺の布団屋根に、金綱絞りの屋台へと、古えの面影を残しながら、新調されたのと同等に、豪華絢爛な屋台へと、構築してきました。
 前後の梵天は、エビ、脇梵天は、龍。狭間の彫刻は、明治21年、播磨の彫刻師 久保経一長正(西紺屋町)の作品で装飾されています。
 水引幕は、宮島弁財天の御神体が現れ龍神に跨り、奢る平家一門 平清盛の威勢を挫くという物語の「平清盛と安芸の宮島」図で(絹常の代用的な絵柄)、上品清楚さを醸しだし、区民の多くに親しまれております。
 太鼓は、欅の大木を刳り貫いた2尺8寸の大太鼓で、その響きは勇壮華美、はるか遠くからでも、その屋台の居場所が分かるほどで、大人達からその響きの「美しさ自慢」は、よく聞かされたものです。
 屋台の天幕や、練り子の法被には、北野天満宮の梅鉢紋を入れ、北野区の区民の「誇りの象徴」として、これからも、この屋台が、区民全員に愛され、慈しまれるよう、大切に守って行きたいものと考えております。
「よーいやせー」これは、皆様方の健康、家門の繁栄を願った、掛け声でございます。
 それでは何故、北野区がこの屋台の購入に至ったのかを考察します。と
 北野天満社の、この屋台が北野区にはふさわしい「製作当初から‘天神記の彫りものが乗っている。」との縁(神の指示)により購入され、人知の及ばない空間があるということが如実に示されているのでではないかと考えます。
 伝統文化を大切にする(神に感謝をする。)自分から先に「ありがとう」と、「施し」、その行いが結果として、自分が生かされる(神に生かされている。)に繋がってくる。
 それは、人が「生きたくて生きている。」と言うものでなく「生かされて」生きている。
 伝統文化の保存・継承を通じ「感謝の心」・「共に生きる。」という考え方(信念)の浸透をはかり、地域アイデンティティーの確立に資していくと言うことになるのでしょう。

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「バス・ストップ」                          歌:平浩二  作詞:千家和也  作曲:葵 まさひこ

バスを待つ間に 涙を拭くわ
知ってる誰かに見られたら
あなたが傷つく
何をとり上げても 私が悪い
過ちつぐなう その前に
別れが来たのね

どうぞ口をひらかないで
甘い言葉 聞かせないで
独りで帰る道が とても辛いわ
バスを待つ間に 気持ちを変える
つないだこの手の 温もりを
忘れるためにも

どうぞ 顔をのぞかないで
後の事を 気にしないで
独りで開ける 部屋の鍵は重たい
バスを待つ間に 気持ちを変える
うるんだその目の 美しさ
忘れるためにも

  


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