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34「卑弥呼」to「柳田國男翁」to「邪馬台国」!! 本地垂迹説

「文殊会式」                               「文殊会式」については、その始まりは何もどうと言うものではなく、「安喜門院」の法要を僧侶が行こなっていたものが、見世物に変形したものと考える。「文殊菩薩」は創建当初からあったようには語り継がれては来ているが、そうではなく2月11日が「文殊会式」開催となれば、安喜門院の命日が始まりとなる。                                                                                                    それより「文殊会式」の変遷、江戸幕府当初の時代、天台宗でも、「本地垂迹説」によって「文殊堂」が「岩尾神社」へと変遷、「文殊会式」も一時中断の時期もあったのではないでしょうかねー。そんな混乱の中から「北野文殊伝説」が語られ。?「文殊菩薩像」は一時「薬師堂」に安置されたとは「播磨鏡」には書かれている。その後に本堂への移転となっているのでしょうねー。    

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 安喜門院(三条后)は、後堀河天皇の皇后ですが、若くして1227年(21才) 女院(安喜門院)となられ(2月)、この頃浄土寺(現在の銀閣寺の地)に引きこもられたことは、徒然草107段に記されています。また、1246年(40才)で 出家(9月)され仏門に入られたとの記録もあります。安喜門院は、いつの頃にこの「田原荘」「神積寺」にこられたのでしょうか。
 開祖慶芳上人の御廟(定祠さん3間×3間 五重の塔・御影石 元は原始林、昭和20年に開墾・売った材木の代金 寺と村で折半)が、1239年に設けられたことはその石碑に刻まれております。安喜門院が出家(1246年9月)され、仏門に入られた時期がこれとほぼ同時期となり開祖慶芳上人の御廟を寄進され、この時期に安喜門院はこの「田原荘」神積寺に住まわれ始めたのではないかということが容易に推測できます。
 北野には「庵の裏」(正三角型で2畝・安寿さん・阿彌陀堂があった。南に墓石が10ケほどあった。)という地名が存在し、その「庵」には「庵寿さん」が住んでおられたと語り継がれています。この庵寿さんが安喜門院さんで、この場所は、「妙徳寺阿弥陀堂」があった場所とも同じ土地で、古の文書に、阿弥陀堂の傍らに「埴岡土佐守」夫婦の碑(五輪二基)があったとも記されており、また現在、神積寺に安置されている「安喜門院阿弥陀種子板」も、元来はこの地に置かれていたものが、いつの頃かに神積寺に移されたのではないかということが推測できる。

本地垂迹説
 本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。                                       延慶年代に 妙徳山神積寺が 火災でなくなった時より二十五年後に元弘の乱(1331年)がおこりました 妙徳山の偏正院・金剛院より、騎馬三人・歩兵二十人旗揃して着到、同じく田原庄神主「文殊院」これに同列するとあります。(大山豪雨 1332年)

 田原口の決戦は、  嘉吉の乱                                                                               嘉吉元年(1441年)8月中旬、山名持豊は4500騎をもって但馬・播磨国境の真弓峠に攻め込み、この方面を守る赤松義雅と数日にわたり攻防があった。
8月28日、山名持豊は真弓峠を突破し、退却する赤松義雅を追撃しつつ坂本城に向かって進軍した。
8月30日、両軍は田原口で決戦を行い、赤松義雅は善戦するが力尽き敗走した。
9月1日、山名持豊の軍勢は坂本城へ到り、細川持常の大手軍と合流して包囲した。
9月3日、赤松満祐は城を棄てて城山城(兵庫県たつの市)へ移る嘉吉元年(1441)但馬国の守護職、山名持豊(後の宗全)は、幕府の命令を受けて真弓峠に布陣した赤松満祐の軍を破り播磨国を占拠しました。この事件のことが、赤坂とかビワクビ(百首・墓)の地名で文殊堂(岩尾神社)裏に言い伝えられている。またビワクビ古墳と言われている所に、「亀石」のような多くの漢字の石があり、それを間違わずに全文読めれば扉が開く。大岩があると聞かされているが、梵字の岩は見たが定かではない。(風穴蓋?)    その42年後の文明15年(1483)赤松政則(満祐の一族)は、但馬への進攻を計画し、12月25日真弓峠に到着しましたが、おりしも冬季で雪が多く寒気が厳しかったため、谷陰に設営しているところを、雪なれた但馬勢二千余騎に攻められ多くの将兵が戦死しました。
 このため赤松軍は真弓峠から退却し播磨に引揚げました。

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                       「文殊会式」写真 
北野文殊伝説  北野の文殊 ―文殊さまの知恵比べ―                                    文殊(もんじゅ)様と言えば、知恵(ちえ)のすぐれた仏様です。あちこちのお寺で祭られていて、たくさん の人たちが、文殊様に「どうぞ知恵をお授けください」とお願いします。その文殊様同士が知恵比べをしたら、 どうなるのでしょうか。                                                                                         昔、播磨(はりま)にある北野の村に、文殊様がいらっしゃいました。その文殊様が、ある日、天橋立(あま のはしだて)を見物しがてら、切戸(きれど)の文殊様を訪ねようと思い立ちました。さっそく旅支度をして出 かけ、天橋立をながめた後で切戸へとやって来ました。 「北野の文殊やないか。よう来たのう。どうじゃ、 切戸はええとこやろう」 切戸の文殊様は、にこにこしながらむかえてくれま した。 「ほんまやのう。景色もええが、ここのお寺もお参 りの人がぎょうさんおって、たいしたもんやなあ」 お参りの人が数えるほどしかいない北野の文殊様は、 感心してそう言いました
 二人でお酒を飲みながら話していると、切戸の文殊様は、そのうちにこんなふうにぐちを言い始めました。 「そやけどなあ、毎日毎日拝まれて、たのみ事ばっかり聞かされたら、ほんまにかなわんもんやで」 「あほなことを。こないにお参りしてもろうて、そんなこと言うとったら、ばちが当たるで」 北野の文殊様はそう言いましたが、内心、うらやましくてたまりません。どうにかして、切戸の文殊様と入れ かわりたいものだと考えました。一方の切戸の文殊様は、こんなふうに思いました。 「あないなこと言うて、切戸をほめとったけど、あの北野の文殊は知恵の働くことで有名なやつや。いっぺん、 北野がどないな具合か確かめたろう」                切戸の文殊様は、北野の文殊様が帰る後をそっとついて、北野までやって来ました。お寺の外で、北野の文殊 様がおよめさんに土産話をしているのを、そっと立ち聞きしてみますと、 「切戸ちゅうても、たいしたことあらへんなあ。景色だけはええけど、あないにお参りが少なかったらあかん。 北野とは比べもんにならへんわ。よそへ行ってみたら、自分とこのええのがわかるなあ」などと話しているのが 聞こえます。 「ほれみてみい。これやから油断でけへん。切戸ではあないなこと言うとったのは、うそやったんやな。やっ ぱり、北野の方がようもうかってるんや」 切戸の文殊様はぶつぶつ言いながら帰りましたが、「何とかして北野の文殊と入れかわることはできないか」 と、そればかり考えていました。
 しばらくたって、北野の文殊様から手紙が届きました。 切戸ではお世話になったから、お返しに北野へもきてほ しいと言うのです。ただ、正月の二十五日が、お参りが 一番少ない、ひまな日だから、その日に来てほしいと書 いてありました。 正月の二十五日、約束どおり切戸の文殊様は、北野の 文殊様の所へやってきました。 「北野の文殊よ、なかなかええ景色やないか」 「景色言うても山しかあらへんがな」
 北野の文殊様の手紙には、たしか今日はお参りが一番少なくて、ひまだと書いてありました。ところが、お参 りの人を見ていると、次から次へひっきりなしです。 「お参りも多いやないか」 「いやいや、ほんまに不景気なもんやで」 切戸の文殊様がほめても、北野の文殊様はちっともじまんしません。切戸の文殊様は、それが余計に気になり ました。北野の文殊様が、自分の所をちっともじまんしないのは、北野がよほどいいところだからにちがいない。 そんなふうに思いました。

 そこで切戸の文殊様は、じょうだんめかして、「どうや、いっぺん入れかわってくれへんか」と言ってみまし た。 「いやいや、こんなとこでも住めば都や」 北野の文殊様はそう答えましたが、顔はにこにこしています。切戸の文殊様は、ますます北野が良い所のよう に思えてきました。そこでどうしてもと無理にたのんで、とうとう入れかわってもらうことになったのです。 ところが入れかわった次の日、ひとりのお参りもありません。それどころか、何日経っても、お参りの人は やって来ません。 「こらいったい、どないしたんやろう」

 そこで切戸の文殊様は、近所に出かけていって、お ひゃくしょうさんにたずねてみました。するとおひゃく しょうさんが言うのです。
「お参りがあるのは、一年でも正月の二十五日だけですわ。他の日にお参りする人なんかありまへんがな」 そのうえ、北野の文殊様にはおよめさんもいないというのです。北野の文殊様は、切戸の文殊様が立ち聞きし ているのを知っていて、一人で話していたのでした。
「しもた、北野の文殊にいっぱいくわされたんや。」 切戸の文殊様はくやしがりましたが、もう間に合いません。 それからというもの、子供たちに 切戸の文殊はあほ文殊 北野の文殊は知恵文殊 と歌われるようになったそうです。                           ( 文殊会式 中断の不満解消のための方便❓❓ )

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寛喜の大飢饉について
                                
 寛喜の大飢饉とは寛喜2・3年(1231・32)に発生した大飢饉で、日本の歴史上でも稀有な天災だった。実は、この大飢饉の前年から不順な天候が続いており、その難を避けるべく改元が行われ、安貞から寛喜へと年号が変わった。ところが、年号が変わっても、飢饉が回避されることはなかった。
 寛喜2年(1231)6月、武蔵国金子郷(埼玉県入間市)と美濃国蒔田荘(岐阜県大垣市)は異常気象で、初夏にもかかわらず降雪があったという。不幸なことに、この年の夏は冷夏と長雨が続き、同年7月には霜降、8月には大洪水と暴風雨が襲来し、例年にない強い冷え込みが日本列島を襲った。冷害により農作物は大きな被害を受け、収穫に悪影響をもたらした。
 寛喜2年(1231)の天候不順による農作物の収穫量の減少のため、翌年はわずかに残った備蓄穀物を食べ尽くし、全国的に餓死者が続出したのである。厳しい飢餓で人々は死に絶え、人口の3分の1が失われたという。
 翌寛喜3年(1232)は一転して激しい猛暑に見舞われ、旱魃が農民を苦しめた。早い段階で種籾すら食したので、作付けが困難になる不幸にも見舞われたのだ。
 同年9月には北陸道と四国が深刻な凶作となり、京都や鎌倉といった都市部には生活困窮者が流入した。『明月記』(藤原定家の日記)には、餓死者の死臭が漂ってきたという生々しい記述がある。餓死者が激増したため、幕府は備蓄米を放出した。さらに年号を貞永に改め、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)などで国土豊年の祈禱が執り行われた。
 大飢饉で庶民の生活は困窮した。問題となったのが、自分はもとより妻子までも売るという、人身売買が続発したことだ(自分を売るとは、自ら奴隷になること)。これまで人身売買を禁じてきた幕府は対応を迫られ、苦境に立たされることになる。その事実を示すものが、次に掲出する法令であった。
寛喜3年(1232)に餓死者が続出したため、飢人として富家の奴婢になった者については、主人の養育した功労を認め、その奴婢になることを認める(人身売買の許可)。人身売買は、その罪が実に重いものである。しかし、飢饉の年に限っては、許可するところである。ただし、飢饉のときの安い値段で、売主が買主から奴婢を買い戻す訴えを起こすことはいわれないことである、両者が話し合って合意し、現在の値段で奴婢を返還することは差し支えない。
 幕府は出挙米を供出するなど対策を行ったが、人身売買を許可せざるを得なかった。しかし、それは飢饉の年のみという時限立法の措置だった。恒久的な措置でなかったことに注意すべきで、人身売買の罪の重さを認識していた。そして、法令の後半部分では、予測されるトラブルを避けるための配慮もしたが、この措置はのちに幕府を悩ませる。
 この法令は寛喜3年(1232)の大飢饉から8年後の延応元年(1239)4月17日に発布されたものだが、この段階でも人身売買をめぐる問題は深刻だった。同年5月には、幕府が人身売買を禁止した様子がうかがえる(『吾妻鏡』)。
 その背景として、幕府は寛喜3年(1232)の大飢饉で人身売買を認めたものの、妻子や所従を売買したり、あるいは自ら富家の家に身を置く者が跡を絶たなかったという事情があった。それに伴う訴訟も増加していた。こうした問題を受けて、同年5月1日には六波羅探題に向けてある指示がなされた。
 それは訴訟で扱う範囲のことで、訴人(原告)と論人(被告)が京都の者であれは、幕府が関与しないという原則である。関東御家人と京都の者との裁判の場合は、幕府が定める法によって裁きを行うことになった。そして、最後の結びでは、改めて人身売買を禁止する旨の言葉で締め括られている。
 同年5月6日には幕府の下文が発給され、「綸旨」に任せ人身売買を禁止する旨が伝えられた。つまり、朝廷としても大飢饉以来の悪習を断ち切りたいと考えていたのである。
 一連の流れを考慮すると、寛喜3年(1232)の大飢饉を契機にして人身売買が常態化し、トラブルや訴訟が増加した様子をうかがえる。あくまで時限立法であったはずが、ことはうまく運ばなかったのである。その流れは、決して止むことがなかった。
 いずれにしても、食糧危機や飢饉は非常に怖い。国連の報告を待つまでもなく、私たちも真剣に考える時期に来ているようだ。   渡邊大門より




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