継体天皇の考察⑤(父方の系譜)
継体天皇の母である振媛の母方は加賀の江沼氏、一方の父方は垂仁天皇の系譜にある三尾氏、そしてその三尾氏は近江を本拠地としていたが、あるときに一部が越前、能登へと移動し、やがて越前の三尾氏が三国氏を名乗るようになった。継体天皇の母方の出自に関して現時点で私がたどり着いた仮説です。
さて、今回は継体天皇の父方、つまり彦主人王(ひこうしのおおきみ)、古事記では汙斯王(うしのおおきみ)の系譜について詳しく見ていきます。
彦主人王は近江国の高嶋郡にいて振媛を迎え入れたのですが、継体が生まれて間もなく亡くなり、幼い継体は母とともにその故郷である越前国坂井郡に移ることになりました。彦主人王は近江で生まれて近江で育ったのでしょうか。さらにさかのぼって、彦主人王の父である乎非王(おいのおおきみ)や祖父の大郎子(おおいらつこ)はどこを拠点にしていたのでしょうか。この大郎子は別名を意富富等王(おおほどのおおきみ)といいますが、継体父方の出自をさぐる手がかりはこの意富富等王にあるのです。
古事記の応神天皇段によると、意富富等王は三国君・波多君・息長君・坂田酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君の祖となっています(三国君・波多君・息長坂君・酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君とする説もある)。「継体天皇②(継体天皇の出自)」ではここに三国、息長、坂田の名があることに留意されると書きましたが、これによって継体天皇は三国氏のみならず、息長氏や坂田氏と同祖関係にあることがわかります。
彦主人王が振媛を迎えた近江国高嶋郡とは琵琶湖を挟んだ反対側に近江国坂田郡があります。現在の米原市を中心に北は長浜市の一部、南には彦根市の一部を含む地域ですが、この坂田郡の天野川下流域に坂田と息長という地名があるのです。この地を拠点にしていたのが息長氏と坂田氏です。(息長氏については別の機会に考察したいと思います。)
この息長氏と坂田氏はいずれも継体に妃を出しています。息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の娘、麻積郎子(おみのいらつめ)と坂田大跨王(さかたのおおまたのおおきみ)の娘の広媛(ひろひめ)です。両氏は継体と同祖関係にあるだけでなく、いずれも外戚として継体を支える存在であったと言えます。息長氏、坂田氏がいずれも近江国坂田郡を拠点としていたとすれば、その先祖である意富富等王もこの坂田郡あたりにいた可能性がないでしょうか。日本書紀の允恭天皇紀には次のように書かれています。
允恭天皇の后である忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)には弟姫(おとひめ)、またの名を衣通郎姫(そとおしのいらつめ)という妹がいました。天皇はこの妹を気に入って妃にしようとしましたが、彼女は姉に気を遣ってこれを拒否し続けました。弟姫はこのとき、母に従って近江坂田にいました。天皇は使者を遣わして説得にあたらせた結果、弟姫は7日目にしてようやく入内を決意するに至りました。
この忍坂大中姫と弟姫の姉妹はいずれも意富富等王の妹にあたります。ということは、このとき弟姫が従っていた母は意富富等王の母でもあり、その母は近江坂田の出身である可能性が高いということになります。そうすると、その子である意富富等王も同様に坂田を拠点にしていたことが想定されます。
下に古事記の記述をもとに意富富等王からさかのぼった系図を示します。古事記では意富々杼王と記されます。
この系図から、意富々杼王の父である若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)は応神天皇と息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)の間にできた子であることがわかります。その息長真若中比売の父が杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)で、これは先に見た上宮記一云に記された系譜と一致します。杙俣長日子王をさらに遡ると再び息長の名が見えます。倭建命(日本武尊)の子、息長田別王(おきながたわけのみこ)です。つまり、若野毛二俣王の母方が息長氏であることがわかります。
一方、若野毛二俣王の父である応神天皇ですが、言わずと知れた息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、つまり神功皇后の子です。さらに神功皇后の父は息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)です。つまり、若野毛二俣王は父方も息長氏ということになるのです。
このように古事記の系譜を見る限り、継体天皇の父方は息長氏の後裔ということになります。ただし、これらの系譜がどこまで信用できるのかは何とも言えません。たとえば、倭建命(日本武尊)から出ている息長氏の系譜は日本書紀には記されていないのです。
日本書紀の允恭天皇紀にある衣通郎姫の説話や、古事記および上宮記一云の系譜に一定の信頼をおくのであれば、継体の父方は少なくとも曾祖父である意富富等王までは近江国坂田郡を拠点にしていた可能性が高いと言えるでしょう。