17.石上神宮の祭祀
石上神宮について触れている資料に『紀氏家牒』という紀氏の伝承や系譜がまとめられたものがあります。平安時代の編纂とされていますが、現在は逸文が残るのみです。それによると、蘇我馬子の子の蝦夷は葛城県豊浦里にいたので豊浦大臣と呼ばれ、また、多くの兵器を所蔵していたので武蔵大臣とも呼ばれました。蝦夷の母は物部守屋大連の妹である太姫で、彼女は守屋家の滅亡後に石上神宮の斎神の頭となります。それで蝦夷は物部族の神主家等を下僕にして物部首または神主首と称するようになりました。蝦夷の母が守屋の妹であることは『日本書紀』皇極紀にも記されます。
物部守屋の死後、蘇我蝦夷は母であり守屋の妹である太姫を石上神宮の神官にするとともに、物部一族を物部首と称するようになった、つまり物部氏を首の姓に貶めたというのですが、これは蘇我蝦夷が市川臣の四世孫である武蔵臣を物部首と名付けたとする『新撰姓氏録』と差異がありますが、蘇我蝦夷のときに石上神宮を祀る一族を物部首と称するようになった点は一致します。それが春日臣氏(和珥氏)だったのか、それとも物部氏だったのか。
平林章仁氏は、石上神宮に収蔵される神宝は各地の豪族から服属の証に献納された霊威に満ちた聖器なので、王権の執政官である物部氏がその祭祀を専掌していたが、守屋の死以降、守屋に縁のある女性が祭祀に入り、さらに皇極朝で蝦夷・入鹿体制が確立すると蘇我氏による神宮祭祀への関与が強まって、物部氏のもとで神宮祭祀に従事していた春日和珥氏に物部首の氏姓が与えられた、とします。
また、石上神宮の創建年代を具体的に示す記録はありませんが、『日本書紀』には安康天皇が石上穴穂宮に宮を遷したこと、仁賢天皇が石上広高宮で即位したことなどが記されるので、5世紀前半から中頃には石上の地が王権にとって重要な場所であったと考えられます。さらに神宮境内にある禁足地から出土した剣や鉾、玉類などは古墳時代前期あるいは中期前半のものと考えられていることから、少なくとも5世紀には王権による祭祀が行われていた可能性が高いと言えます。伊勢神宮とならんで神宮の呼称が用いられていることも王権にとっての重要性を表しています。
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