継体天皇の考察②(継体天皇の出自)
継体天皇の考察の第二回目です。今回は継体天皇の出自について考えます。継体の出自は、越前と近江のふたつの候補があります。ここでは記紀および上宮記という史料にもとづいて確認していきます。
日本書紀には、応神天皇の五世孫である男大迹王(おおどのおうきみ・継体天皇)は近江で生まれて越前で育ったと書いています。父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)で、母は垂仁天皇の七世孫の振媛(ふるひめ)です。彦主人王は、振媛が容姿端麗であると聞いて、近江国高嶋郡の三尾の別邸から使者を派遣して、越前国の三国の坂中井(さかない)から振媛を迎えて継体天皇をもうけました。三国の坂中井は越前国坂井郡とされています。
しかし、天皇が幼いときに彦主人王が亡くなり、取り残された振媛は、故郷を遠く離れたところで満足に養育できない状況を嘆き、故郷である越前の高向に帰って親の面倒を見ながら幼い天皇を養育することにしました。その後、成人した天皇は、人を愛し、賢人を敬い、心が豊かな大人へと成長しました。
一方、古事記では、武烈天皇が崩御して皇位を継ぐべき皇子がいなくなったとき、応神天皇五世孫の袁本杼命(おおどのみこと・継体天皇)が近江国より迎え入れられた、と書いているだけです。
日本書紀では近江で生まれたものの、その大半を越前で過ごしたことになり、古事記によると継体は即位前は近江にいたとも考えられます。しかし、古事記は継体が越前で過ごしたことがあるかどうかには触れていません。
これら記紀のほかに継体天皇の出自を確認するために利用される史料に「上宮記一云(じょうぐうきいちにいう)」というのがあります。上宮記というからには聖徳太子に関する史料と考えられていますが、上宮記そのものはすでに存在しておらず逸文が残るのみです。鎌倉時代末期に卜部兼方が著した「釈日本紀」という日本書紀の注釈書にその一部が引用されているのです。そこには継体天皇の父方および母方の系譜が具体的に記されていて、それを系図にすると次のようになります。
これによると、継体天皇の父方は凡牟都和希王→若野毛二俣王→大郎子(意富富等王)→乎非王と続いていますが、これが古事記の応神天皇段にある系譜、品陀天皇→若野毛二俣王→大郎子(意富富杼王)と酷似しており、凡牟都和希王が品陀天皇、すなわち応神天皇とみなすことができます。前述の通り、古事記は武烈天皇段の最後に、品太天皇の五世孫の袁本杼命(継体天皇)を近江から迎えたと記します。また日本書紀では、継体天皇である男大迹王が応神天皇である誉田天皇の五世孫であり彦主人王の子であることが記されます。さらに応神天皇の皇子として稚野毛二派皇の名が見え、これは上宮記や古事記に見える若野毛二俣王と同一と思われます。
上宮記は使用する文字や文体などから記紀よりも成立が古い、具体的には推古天皇から天武天皇の間と考えられています。その上宮記に記載されていたと思われる継体天皇に関する系譜は記紀の記述とも矛盾がなく、記紀よりも詳しい内容が記されているために記紀を補完する史料として活用されているのです。この前提にたって応神天皇の五世孫としての継体天皇の系譜を整理すると次のようになります。
<上宮記>
応神天皇→若野毛二俣王→大郎子→乎非王→汗斯王→継体天皇
<古事記>
応神天皇→若野毛二俣王→大郎子→〇→〇→継体天皇
<日本書紀>
応神天皇→稚野毛二派皇子→〇→〇→彦主人王→継体天皇
古事記によれば、大郎子は、三国君・波多君・息長君・坂田酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君の祖とされています(三国君・波多君・息長坂君・酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君とする説もある)。これは継体天皇がこれらの氏族と同じ先祖を持つことを意味しますが、三国、息長、坂田の名があることに留意されます。
古事記、日本書紀、上宮記ともに継体天皇の系譜に整合性が確認できるので、その出自についても記紀の記述を信頼すると次のように考えることができます。
継体天皇は近江で生誕したものの、幼少期の父の死によって母とともに越前に居を移し、壮年期までを越前で過ごしました。その後、天皇として招聘されるにあたり、近江の王の子息として近江より迎え入れられたと記されることになりました。ただし、近江に居住していたと断定することは難しいです。
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