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3.物部の分布 

物部氏を考えるにあたって、記紀や先代旧事本紀の記述などを根拠にニギハヤヒの降臨=物部氏の東遷とする説が多く見受けられます。仮にニギハヤヒが神武天皇の東征に先立って降臨して大和を治めていた(日本書紀)、あるいは神武天皇を追ってやってきた(古事記)、ということが史実であったとすれば、それは3世紀よりも前のことだと思われます。一方で、物部氏のウジ名である「物部」の由来において、「物」が意味するものについては諸説あるものの、「部」については5世紀末あるいは6世紀初めに成立した部民制に基づくものであるとすることは通説になっているように思います。

このあと見ていくように、3世紀まで大和を治めていた一族がヤマト王権の配下に入り、やがて物部の呼称を得て勢力を拡大し、おおむね10世紀までに全国各地に物部の存在が確認される状況になります。その間、6世紀末に仏教の受容を巡る蘇我氏との抗争(丁未の乱)に敗れて本宗家が滅亡するという事態があったにもかかわらず、です

はたして、3世紀よりも前に大和へ東遷してきた集団が5〜6世紀に物部氏と呼ばれ、6世紀末に本宗家滅亡という苦境に陥りながらも、10世紀初めには全国各地におよぶほどの勢力拡大を成し遂げたのでしょうか。たしかに、本宗家が滅んだ後、傍系の物部麻呂が壬申の乱後に石上の姓を受け、石上朝臣として左大臣まで昇りつめて復権を果たしましたが、中央の物部氏が勢力を拡大した結果として全国に物部氏を配置する、あるいは全国の物部氏を配下に置くようになったとすれば、それは天皇家に匹敵する、もしくはそれ以上の権力を握っていたことになり、さすがにそれは困難であると考えます。それでは、なぜ物部氏が全国各地に存在することになったのか、それを考えていくことにします。

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いまひとつ実態がよくわからない物部氏。素人発想で出したトンデモな答えに対して、その検証プロセスは意外なほどに真面目、丹念、緻密なものとなり…

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