饒速日命を考える③(古代史構想学)

日本書紀、古事記ともに、饒速日命は物部氏の先祖である、と書いています。その饒速日命は大和で神武天皇に帰順する時に、天神の表物(しるしもの)である天羽羽矢(あめのははや)と歩靫(かちゆき)を神武と見せ合って、互いに天津神の子であることを確認した上で神武の配下に入りました。

正史である日本書紀は、饒速日命が天皇家よりも先に大和を治めていた人物がいたことを書いています。それが饒速日命であり天津神の子であること、物部氏がその饒速日命の子孫であること、すなわち物部氏が天皇家と同じ天津神系の氏族であることも書いています。本来であれば天皇家よりも先に大和を治めていた一族がいたとは言いたくなかったでしょう。ましてや、それが臣下の豪族である事実も伏せておきたかったはずです。でも、それを隠すことができないくらいに物部氏の存在は大きく、無視できないものであったのです。だから、物部氏の先祖が先に大和を治めていたが、それは天皇家の親戚筋であった、として天皇家のメンツを保ったのです。絶大な権力を持って日本書紀編纂をリードした藤原不比等ですら、そのようにせざるを得なかったのでしょう。

さて、その物部氏の先祖である饒速日命が丹後から河内を経て大和にやってきた経緯は海部氏勘注系図をもとに見てきた通りです。では、丹後に降臨する(やってくる)前はどこにいたのでしょうか。ここでは先代旧事本紀を参照します。

先代旧事本紀には、饒速日命は降臨に際して、尾張連の祖である天香語山命ら32人の防御の人、物部造の祖である天津麻良ら五部人(いつとものお)、二田造ら五部の造、兵杖を帯びた25人の天物部(あまつもののべ)、さらには船長や舵取り、船子ら6人を率いて天降ったことが記されるとともに、これらの人物の名が列挙されています。

饒速日命に随行したこれらの者たちは物部造や天物部はもとより、皆が物部氏と何らかの関係がある氏族であったと言えるでしょう。そしてここに登場する氏族名が河内や大和など畿内にある地名と一致する例が20以上あり、北部九州の地名と一致する例も10以上、さらに両方に見られるのが9例あるといいます。北部九州では遠賀川下流域に地名をもつ氏族が多く、そのあたりが物部氏の拠点であったと考えられます。このことから、北部九州の遠賀川流域にいた物部氏が畿内へ移ってきたという見方ができます。

 さて、この遠賀川流域の福岡県飯塚市には立岩遺跡という弥生時代の遺跡があります。私はこの立岩遺跡を中心にした地域が魏志倭人伝にある不弥国ではないかと考えています。この立岩遺跡は石包丁の生産・流通拠点として弥生時代中期にもっとも繁栄し、43基の甕棺墓が見つかっています。その中の10号甕棺には前漢鏡6面、細形銅矛1本、鉄剣1本が副葬され、当時の王の墓と考えられています。しかし、倭人伝に記された弥生後期には戸数が千戸余りとなり、隣の奴国の二万余戸と比べるとかなり小さな規模になっていました。

それとは逆にお隣の奴国は中国に朝貢し、西暦57年には後漢から「漢委奴国王」の金印を授かって、中国を後ろ盾にして勢力を拡大していました。不弥国は西からの奴国の圧迫に耐えかねて東方面への移住を余儀なくされたのではないでしょうか。この東への移住集団を率いたのが饒速日命だったと思うのです。そしてその移住先が丹後だったのです。このことを反映して饒速日命の降臨伝承ができあがり、その後の河内から大和への移動、神武天皇への帰順と言う話につながっていくのです。

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以上、饒速日命に関する私の考えを3回に渡って、ごくごく簡単に書いてきました。日本書紀、古事記、海部氏勘注系図、先代旧事本紀などの日本の史料に魏志倭人伝や各地の遺跡などを加味して考えてみました。もちろん、これが正しいと言うつもりはありませんし、私と違う考えを否定するつもりもありません。むしろ、専門家の方々や在野の研究者の皆さんの考えを尊重し、それら先学の成果のいいとこ取りをして自分なりに考えたことをアウトプットしているだけで、そのことが楽しいと感じています。これが、私が古代史を楽しむ「古代史構想学」のスタイルです。

(おわり)

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